アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

11/18の不安:仕事が遅い原因を考えてみる。

 

ブログ更新せずに1ヶ月が過ぎました。

最近なぜかアクセス数が増えたので気をよくして更新しておきます。

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最近の悩みは仕事の進捗が遅いことです。

来月の頭に個人的にはかなり重い会議を控えているのですが、最近はその準備に追われています。

ただ、業務としてはほぼそれしかやっていないような状態で、このままでいいのか焦りを感じています。

上司も、「あの業務はしんどいよ」といって自分がそればかりしかやらないことに関しては何も言ってこないわけですが、前に所属していた部署の上司ならきっと文句を言っきただろうと想像するのです。

それに最近の自分の生産性(アウトプットした量/過ごした時間)を考えると、もう少し?というか、かなり改善の余地があると思われます。

さらに言うと、仕事の早い後輩は一つどころか様々な業務に関与していて経験値をどんどん蓄えているように見えます。

人間としてのポテンシャルがそもそも違うので、「後輩に負けるのは嫌だ」なんて今更言えないわけですが、私にもプライドというものがあるのも確かです。

 

先週、先輩・後輩と飲む機会があったのですが、その際に先輩から「○○と△△は自分の球を投げ返すのが遅い」と言われました。

○○は以前記事にも書いた発達障害が疑われる先輩のことで、△△は私のことです。

fecunditatis.hatenablog.com

 

まあ、その言葉を受けて落ち込んだのですが、飲み会で落ち込んでもしょうがないので、「そうですね。。。頭の隅にはあって、自分でやろう思うんですけど、なんやかんや遅くなってしまって、、、いざ蓋を開けてみたら思っていた内容と違うってなるんですよね。それでまた悩む。。。」と返したところ、4つも下の後輩の女の子に「自分で全部やるの効率悪くないですか?私はわからないことあったらすぐ誰かに聞きますよ」と返されさらに落ち込みました。

さて、落ち込んでばかりでは前に進みませんので、ここに仕事が遅くなる原因を考察したいと思います。

以下、仕事が遅くなると思う原因

 

①飲み込みが悪いので、仕事を振られた時点で何をすべきかわかっていない。

これも以前記事に書いたような気がしますが、人の話の内容の意図を汲み取る力が弱いので、仕事を振られた時点で何をすべきかわかっていない人もいるかと思います。

わからなければその時点でわかるまで聞き直すべきだと思いますが、3回以上は聞けない時もあります。

 

②やるべきことは分かっていても手段がわかっていない。

目的、目標は把握していてもどのようにそこに到達すべきかわかっていない時があります。経験値や想像力によると思います。

 

③優柔不断で判断が遅い。

これは奥が深い問題だと思います。私が考えるにアスペルガーは外界の刺激に対して自動的に生きる性向があるので、主体性がないために、普段から自主的に判断を下すことが少ないと思います。

日常で判断する回数が少ないと経験値も増えませんし、判断の精度も悪くなると思います。普段から自分の判断を下した結果に対して責任を持つという習慣がないので、仕事になるとなおさら判断を下すのが億劫になってきます。

また判断をしたとしても周りからガヤガヤと文句を言われることが多いので、さらに判断を先延ばしにしようと思います。

するとどうなるかと言うと、誰かに言われるまで、怒られるまで先延ばしにするか、自分で焦りだすまで手を付けないということをやりがちです。

確かに、早め早めにと時間だけ気にして判断を下すと、後で間違いに気づいて手戻りになったというケースも少なくありません。

しかしながら、手戻りを生じさせるのと同じくらいレスポンスが遅いというのは罪深い行為なので、すぐに行動に移すことを意識すべきだと思います。

 

④本質的に人と関わりたくないので、一人で仕事したい。

本質的に人と関わりたくないので、全部ひとりでやろうとします。人と関わることが億劫なのでわからなかったら人に聞こうと瞬発的な判断が出来ません。

一度考え出すと自分が閉じてしまうというのもあると思います。

もうちょっと考えたらわかるのでは???

そんなことを考えているうちに数時間経過していることもしばしばです。

一人で考えていても考えは堂々巡りをするばかりで結論に至りません。思考というものは人との会話で促されることもあるので、後輩の言うとおり、わからなかったすぐ聞くべきだと思います。

今日もやっと結論が出たことがあったのですが、なんでこんなに遠回りしたのだろうかと不思議です。

最短距離でここまで来ようと思えば出来たのだろうか。。。と今考えていますが、恐らく他人との会話の絶対量が少なかったのだろうと思います。

また、話は変わりますが人にお願いをするのがかなーり苦手なので、手伝ってもらうことができないというのも仕事を遅くしていると思います。

これはもう性格によるものなので、すぐになんとかなるものだとは思いません。生まれ変わって来世に期待するしかないですね。

 

⑤こだわりが強い。

納期に追われた状態で見てみると大して気にするべきでないところに、時間を掛けていたなんてことがよくあります。

文書の体裁や細かい計算などです。確かに作成するものの精度が高いことは重要なのですが、手を抜くべきところというものがあるのも事実です。

こだわりが強かったり完璧主義だったりすると変なところが気になって前に進めないと思います。こだわりはこだわりなので、本当にそこが自分の満足いくようにならないと気が済まないということもあると思いますが、あとで徹夜するような羽目になることを考えると諦めがつくこともあるので、一旦立ち止まって想像力を膨らますことが重要だと思います。

 

⑥人からの評価を気にしすぎている。

これは上記の項目とも関連しているのですが、人からの評価を気にしていると完璧主義になって前に進むのが遅くなります。

これは以下の本に書いてありました。

fecunditatis.hatenablog.com

 

⑦メモを書かない

メモを書くことは以前から意識的に行っているので、大きな原因ではないと思いますが、どなたかのためになることを想像して書いておきます。

「書かないと考えたことにならない」という人もいます。また「ピンチの量は書けば1/2になる」という言葉も聞いたことがあります。

書くことが大事です。

 

⑧単に睡眠不足

最近はあまりないですが、次の日が億劫だったりすると、眠りたくなくてベッドの上でスマホをいじってしまうということが昔ありました。

寝る前のスマホは睡眠を浅くさせます。

かの有名なひろゆきが、自分の能力を伸ばすことはそんなに簡単じゃないから、せめてしっかり寝てパフォーマンスを落とさないように気を付けるべき、というようなことを言っていました。

 

ざっと考えてみましたが、こんな感じです。

ただまだ自分の中では消化しきれいていません。

もっと他に原因があるはずだ。。。。

ざっと上記への主な対策を考えてみると意識的に判断の数を増やすことと人と話すことが大事そうです。

あと考えたのは自分でいくら考えても結論って変わらない時の方が多いですよね。あとで考えようとか、後になったら何か思いつくはずとか、、、ないですよね。

自分に期待しないことも大事だと思います。

思考の癖というものもあるはずなので、もし可能であればだれか仕事のできる人の思考をなぞることが大事だと思っています(そうすれば、自分のどこが悪いのか気づきやすい)。

しかし、実際の生活ではそのような経験を得るのは簡単ではありませんし、どのようにしたらそのような経験が得られるのかよくわかっていません。

追体験なら本を読むべきですが、そんな本がこの世にあるのでしょうか。

おすすめの本があれば教えてください。

ということで今日は以上です。

10/17の不安:コロナ・ブックス『作家のおやつ』平凡社

「作家のおやつ」Twitterで見かけて、雨の中丸善まで歩いて買ってきました。

作家のおやつ (コロナ・ブックス)

作家のおやつ (コロナ・ブックス)

  • 発売日: 2009/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 以前紹介した「作家の猫」と同じ作家シリーズになります。

fecunditatis.hatenablog.com

 「作家の猫」同様に買ってよかったです。

30人ほどの作家の好んだお菓子やそれにまつわるエピソードが掲載されており、それぞれの人となりを知ることができます。

何を好んで食べるかというところははやり十人十色ですので、その作家さんのことを知らなくても十分楽しめました。

写真も豊富でぱらぱら~っとめくっているだけでもなんだか幸せな気分になりました。

紹介されている作家さんは有名どころだと以下の通りです。

作家さんが生きた時代が時代なので紹介されているお菓子は和菓子が多いのですが、今でもお店が残っているのがほとんどで驚かされました(本書末尾に菓子店一覧あります)。

また写真から当時の雰囲気も伝わってきましたし、「日本の文化」みたいなところにも少しだけ触れられたように思います。

以下に私が気になった箇所をつらつらと書いておきます。

三島由紀夫

目次の次のページから三島邸の写真がどーんと出てきます。

なんだか落ち着かなそうな部屋だな。。。と感じました。

部屋の雰囲気は前から知っていましたが、やはりちょっとうーん、という感じです。

澁澤龍彦部屋の写真も出てくるのですが、澁澤龍彦の方がおしゃれな印象を受けました。

お菓子の方はと言うと、煎餅やカボチャの種等、案外質素なものを口にしていたようです。(執筆中はウィスキーボンボンを食べていたらしい。)

 原稿を書くという作業のさまたげにならない”無名のおやつ”ばかりであった。お茶は延命茶のティバッグ箱が机の上に置いてあった。自分で魔法瓶からお茶を注いでいるらしかった。

 ただ延命茶という名称が、三島には似合わないという気がした。

お菓子が質素な感じで安心しました。ここで山の上ホテルの話が出てきたら、東京に住んでいるときに行けば良かったと後悔するところでした。あぶない。

延命茶の件りはくすっときますね。三島には夭折願望があったと思いますし、老化することを醜いことと考えていた節がありますので、延命茶を飲んでも「延命」なんて言葉は三島の頭にはなかったと思います。

 

手塚治虫

手塚治虫はチョコレートが好きだったんですね。

「大阪を舞台に戦後の混乱を生き抜く人々を描いた自伝マンガ『どついたれ』」の「空襲で焼けた菓子工場で主人公(手塚治虫)」が「チョコレートを見つけ興奮している」ひとコマが掲載されています。

戦争マンガとしては水木しげるの「総員玉砕せよ!」は読んだことあるのですが、こちらもちょっと読んでみたくなりました。

 

檀一雄

檀一雄の長男檀太郎さんのコラムが掲載されています。

檀一雄の父親としての姿が描かれているのですが、こういう幼少期、少年時代の視点で描かれたものを読むとうるっと来ちゃいますね(中勘助の「銀の匙」的な?)。

時の流れを感じるというか。

そして檀一雄坂口安吾と同じ時代を生きた人であることも記載された内容で知りました。

 

市川崑

ビルマの竪琴』の映画監督ですね。三島由紀夫金閣寺を映画化した『炎上』の監督でもあります。

fecunditatis.hatenablog.com

 お菓子関係ないですが、ヘビースモーカーであったことにまつわるエピソードが面白かったです。

それに「おしゃれで定評だった」とのことです。確かに写真を見ると小綺麗でダンディ?な姿が写っています。こういうおやじになりたいなぁ。無理だけど。

これまで名前しか知らなかったので、「へぇ~」という感じでした。

 

坂口安吾

こちらもコラムを面白く読みました。かなり気前がいい性格だったみたいですね。

コラムに出てきたオジヤは個人的には全くおいしそうには思えませんでした。。。

 最後はオジヤで、これは安吾が「わが工夫せるオジヤ」と題して書いている。

 まず、鶏骨、鶏肉、ジャガイモ、人参、キャベツ、豆類を入れて、野菜の原形が、とけてなくなる程度のスープストックを作る。三日以上似る。三日以下では安吾流にならない。スープを濁らせてどんどん野菜をとかし、ここへ御飯を入れて塩と胡椒と醤油で味をつけ、三十分煮て御飯がとろけるまで柔らかくする。さらに玉子をとじこんで蓋をして蒸らす。デザートはバナナ一本。

「工夫せる」とか我流でこだわった料理ってちょっとこわい。一般的に認められているレシピで作った方がうまいんじゃないかと保守的な私は思います。

あとバナナはデザートって感覚あまりないですよね。

「バナナは手に入れにくい高級品で値段が高かった」とのことで時代を感じました。

fecunditatis.hatenablog.com

 

植草甚一

名前も聞いたことがないですが(すみません)、普通に紹介されていたお菓子が気になりました。

それは壽堂の三色団子と黄金芋です。

こんなきれいな三色団子見たことない。。。黄金芋も焼き芋そっくりの和菓子ということで気になりました。

まだお店ありました。

tabelog.com

 

池波正太郎

こちらも「アンヂェラスの梅ダッチ」なるものが気になりました。

梅酒を添えて出される水出しアイスコーヒー。氷入りグラスにコーヒーを注ぎ、半分程度飲んだ後に、梅酒を加えて飲む。「変わっていて二度楽しめる」と池波も好んだ。

とのことです。

梅ダッチの写真が掲載されているのですが、氷入りのグラスに梅酒の梅が添えてあってなんとも涼しげな雰囲気です。

残業ながら浅草の喫茶店「アンヂェラス」は昨年に閉店してしまったようです。

tabelog.com

 

井伏鱒二

「甘いものは大嫌いだった」という井伏鱒二の姿を映した写真が一枚だけ掲載されています。

お菓子嫌いなのになんで?笑と思ったのですが、「カメラがとらえた文士の日常」という本書の企画の一部でした。

 

團伊玖磨

どこかで見たことある名前だと思ったら、あの有名な童謡「ぞうさん」の作曲者でした。それに血盟団事件で暗殺された團琢磨の孫ということです。すごい家系。

お菓子についていうと仙台駄菓子である「石橋屋のゼリー菓子」や金平糖などのエキゾチックなものを好んでいたようです。

仙台駄菓子は江戸時代から作られているようですが、こんなハイカラなものが江戸時代からあったのかな??と興味を持ちました(恐らく仙台駄菓子自体は江戸時代からあったということですね)。

 

森茉莉

はじめて名前を聞いたのですが、文豪森鴎外の長女とのことです。すごい。

「有平糖(あるへいとう)」なる飴細工のような「南蛮菓子が発展した工芸菓子」の写真が掲載されているのですが、これがなんとも言えずきれいです。

失われた時を求めて、過去の自分の掌でさわり、たしかめ、ふたたび現在の中に再現しようとした、素晴らしいフランスの作家の、マルセル・プルウストが愛した、彼が幼児に母親や叔母の家で味わったプティット・マドゥレエヌ。有平糖は私のプティット・マドゥレエヌである。

 マルセル・プルウストのマドレーヌの話って有名なんですね。

以前記事で紹介しましたが、「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」について美学専門の大学教授が論じるときに、マルセル・プルウストのマドレーヌの話を引用していました。

この「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」が想像の斜め上だったのですが、上記の森茉莉の文章を読んだときにこれを思い出して一人でふふってなりました。

気になる方以下の記事も読んでみて下さい。

fecunditatis.hatenablog.com

読みながらゆったりとした時間を過ごすことができました。

今日は以上!

10/9の不安:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』新潮文庫

最近寒くなってきましたね。

今年の夏はGを部屋で見かけることなく夏を終えることができました。

コロナで夏らしいイベントはありませんでしたが、次来たる冬を充実させたいと思っております。

さて、久しぶりの更新となりましたが、首記の本読みましたので何かしら書いておこうかと思います。

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)
 

 本当は最近すごくつらいことがあったので、そのことについても書きたいのですが、時間が掛かるので本のことだけで済ませようと思います。

(何があったかというと、前の部署の上司が自分のことを裏で愚痴っていたということが判明したり、後輩に舐められた言動をとられたりで、ほんと自分て仕事できないんだなって落ち込んだっていうことです。まだ生きづらさは消えていない。。。)

 

本題ですが、なぜ『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』を手に取ったかと言うと以前も少し記事に書きましたが、三島由紀夫に影響を与えたという二元論的な考え方がどのように小説に表れているのかを確認しようと思ったからです。

fecunditatis.hatenablog.com

 結果からいうと難しくてあまりそこらへんはよくわかりませんでした。

確かに文中に芸術家である主人公が、自分と一般的な市民とを比較したような発言は出てきましたが、このブログで分析できるほどには意図は汲み取れませんでした。

想像していたより難解。

三島が金閣寺を書く際にマンの文体を意識したと言っているくらいなので、難解なのはうなずける話なのかもしれません。

魔の山』まで読んだらもう少しわかるかもしれない。。。

それで、この本を読んで思ったのは、何となく、素人目線ですが、三島由紀夫に影響を与えた理由が何となくわかるかもしれないということでした。

トニオ・クレーゲル、ヴェニスに死すに出てくる主人公たちはトーマス・マン本人のキャラクターが反映されていると思いますが、その主人公の設定で三島由紀夫に共通していると思われる箇所が何点かあったように思います。

それをまたしても無粋ですが、以下に箇条書きしておこうと思います。

三島由紀夫と共通していると感じた主人公の特徴>

  • 男色傾向
  • 海が好き
  • 芸術家(文士)
  • 官僚の家系
  • 運動があまり得意でない

それぞれ一つずつ見ていきます。

男色傾向

『トニオ・クレーゲル』の主人公トニオはブロンドの女の子インゲ・ボルクホルムのことが好きなのですが、一方でクラスメイトのイケイケ男子ハンス・ハンゼンにも心惹かれています。単に優秀なクラスメイトに憧れるというわけではなくて、ほんとになんか「すき」って感じなんですよね。

この時トニオは14歳くらいでしたので、これは、三島由紀夫の『煙草』に描かれていた「性のゆらぎ」のことかと思ったのですが、そうではありませんでした。

ヴェニスに死す」を読むとこれが「性のゆらぎ」ではなくて男色であることがわかります。

ヴェニスに死すに出てくる主人公アシェンバハは老齢なのですが、普通に美男子が好きでした。

ヴェニスに死すでは、アシェンバハがホテルで一緒になったポーランド人の美男子タドゥツィオが美の象徴として描かれています。後半はやたらとこのタドゥツィオの描写が長いんです。どんだけ好きなんや~という感じでした。きっと三島も共感を覚えたことだと思います。

十五から十七ぐらいまでの少女が三人、十四歳ぐらいかと思われる少年がひとり、この少年は髪を長くのばしていた。この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。蒼白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式的の完璧にもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと思ったほどである。

ギリシャの彫刻はよく三島が筋肉を語るときに出てきますね。そういば、これより前のページに聖セバスチャンの話も出てきました。

むしろそれは積極的な一業績、積極的な一勝利であって、セバスティアンの姿こそ、芸術の一般とはいわないが、すくなくともたしかに今問題になっている芸術ジャンルの最も美しい象徴なのである。

 

海が好き

トニオでもヴェニスでも主人公はやたらと海辺にいるような気がします。

実際、ヴェニスに死すでは主人公アシェンバハは海が好きであることが書かれています。

 やはり滞在することにしよう、とアシェンバハは思った。ほかへ行ったところで、やはり大したことはあるまい。こう考えて彼は両手を膝の上に組んで目を遥か沖合にさまよわせた。はてしのない水平線の単調な靄(もや)の中に視線はずれ動き没した。彼は深刻な訳合(わけあい)から海というものを愛していた。目まぐるしい現象の、扱いにくい多彩な形態をのがれて、単純で巨大な海の懐ろに身を隠したいと望む芸術家の、辛い仕事を続ける芸術家の、休息への欲求から彼は海を愛していた。秩序を持たぬ、節度のない、永遠のもの、虚無への、まさに自己の使命に悖る(もとる)禁制の、またそれ故にこそ誘惑的な愛着から彼は海を愛していた。完璧なものに倚って(よって)静かにしていたいということは、優秀なものを作り出そうと心を砕く人間のあこがれなのだが、この虚無というものはつまり完璧なものの一形式ではあるまいか。

※文中カッコ内は私が追記しました。

うーん、文章の意味はよくわかりませんが、何度か、「彼は海を愛していた」と書かれていますね。三島由紀夫もカナヅチでしたが、海が好きだったように記憶しています。

また、トニオの母親が南国生まれなんですよね。南国というと「花ざかりの森」とか「豊饒の海」を少し想像します。

 

芸術家(文士)

文庫本に収録の解説によるとトニオ・クレーゲルもヴェニスに死すも「芸術家(文士)を主人公にし、芸術家・文士の本質に関する問題を取扱っている」とのことです。

確かに主人公はどちらも文士なんですよね。これも三島に共感を覚えさせたところだと思います。

以下、トニオ・クレーゲルから。

「『天職』は願い下げです、リザヴェータ・イヴァーノヴナさん。いったいこの文学というものは天職じゃない、呪いですよ。――そうですとも、いつごろそれが感じられ始めるかと言いますとね、夙く、おそろしく夙くからなんです。われわれがまだむろん神とも人とも睦み和んでいてしかるべき時からなんです。あなたは自分に刻印が打たれ、ほかの人間たち、平凡で尋常な人間たちと不思議な対立関係にあるのを感じ始める。風刺と不信と反抗と認識と感情の深淵が、あなたをほかの人たちから切り離して、次第に口を大きく開けていくのです。あなたは孤独だ、そうしていざとなってしまうと、もう了解し合う道んなんかありはしない。なんという運命でしょう。

芸術家って大変なんだなって思わされますね。。。好きでなるんじゃなくて、生まれ持った性質がそうさせるんですね。

 

官僚の家系

トニオもアシェンバハもそれなりの家系の生まれとして描かれています。実際トーマス・マン自身は「裕福な旧家の次男として生まれ」たと解説に書かれています。

三島由紀夫も祖父、父親ともに官僚で本人も財務省に入省した後に小説家になっていますね。

つまりグスタフ・アシェンバハは、シュレージェン地方の郡役所所在地Lの町に、身分の高い司法官の息子として生まれた。祖先は将校、裁判官、行政官など、つまり王や国家に仕えて、緊張した、律儀で切りつめた生涯を送った人たちであった。

 

運動があまり得意でない。

トニオ・クレーゲルに出てくる主人公トニオはどんくさいんですよね。

すごく共感を呼びそうで衝撃的だったシーンがあるんですけれど、そのシーンはトニオのどんくささを物語るに十分なシーンだと思います。

自分も読んでいてすごくわかるような、昔こんなことあったかもなと思うようシーンでした。

それは、トニオが舞踏の練習の時間に間違ったダンスをしてしまってそれをトニオが恋しているブロンドのインゲ・ボルクホルム(金髪のインゲ)に笑われてしまうという事件なんですね。

「第二組、前へ。en avant!」トニオ・クレーゲルとその相手の番だった。「お辞儀をして」でトニオ・クレーゲルは頭を下げる。「ご婦人は旋舞を」でトニオ・クレーゲルはうなだれて眉を曇らせたまま自分の片手を四人の婦人たちの手の上に、インゲ・ホルムの手の上において、つい旋舞を踊ってしまった。

 そこらじゅうから忍び笑いや高笑いが起った。クナーク先生は、様式化された驚愕を表現する、あるバレーのポーズをとった。「さあ、大事だ」と彼は叫んだ。

(中略)

 彼女もまたほかの人たちと同じように自分を嘲り笑ったのであろうか。これは自分のためにも彼女のためにも否定したかったが、事実、彼女は笑ったのである。

インゲ笑うんかーい。

めちゃくちゃ悲しいですね。こういうことって大人になったらあまり記憶には残ってないかもしれないですけど、こういうことの積み重ねがどんくさい人の自信のなさに繋がっているんじゃないかなー自分は考えています。

あったかもな。こういうこと。これは共感できる人多いんじゃないでしょうか。

 

というわけで、トーマス・マンの代表作『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』でした。

ヴェニスに死すってもっとおしゃれな感じの話だと思ったんですけど、大半はタドゥツィオに恋している話で肩透しをくらった気分です。

確かにバカンスの雰囲気とか水平線の向こうから太陽が昇るときの描写とかは神話が織り交ぜられていたりして壮大で綺麗ですごく惹かれたのですが、思っていたものとは違いました。

今後はこの流れで魔の山を読むか他の外国作品に触れてみたいなと思っています。

とりあえず、ミヒャエルエンデの『モモ』とかゲーテの『若きウェルテルの悩み』とかヘッセの『車輪の下』で代表的ドイツ文学を味わい、長編小説『魔の山』に取り掛かる。

長編小説繋がりでスタンダールの『赤と黒』、次にフランス文学繋がりで三島が傾倒したとされるラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』、『肉体の悪魔』、〆に斉藤孝氏をして「これを読まずして人間を語るべからず」と言わしめた長編小説ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読む。

最後に日本へ戻ってきて三島がニヒリズムの研究と言った『鏡子の家』を再読し、超大作『豊饒の海』四部作を読む。。。。。

一体どれだけ時間が掛かるだろうか。。。。ほんとスマホいじっている場合ではない。

皆さんも読書の秋満喫してはいかがでしょうか。 fecunditatis.hatenablog.com

 今日は以上!

9/21の不安:入社後、言われて傷ついた一言5選

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長らく更新しておりませんでした。

ここ数ヶ月ずーっと忙しくて、何度か徹夜もしました。

仕事が忙しいと考えがネガティブになってくるので、昔の嫌だったことをよく思い出してはあれやこれやと悩みます。

ここでは、入社後に言われて傷ついた一言を書いておきます。そんなの日常茶飯事だわ、メンタルよわ、って思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はとにかく嫌な思いがしました。

気分を晴らしたいので、ポップな感じで終わらせたいなって思ってます。

それでは早速第5位から。以下では私の本名は伏せて名前は「ahiru」としておきます。

第5位:「何もできないくせにっ!!」(先輩)

 <解説>

これは、昨年の暑気払いの日に、一つ上の仲良くしてもらっていた先輩が私に向かって放った一言です。

私は暑気払いを企画した幹事だったわけですが、その先輩の存在をすっかり忘れて、会場へ向かってしまい、置いてけぼりを食らった先輩が激怒してこう言ったわけです。

確かに先輩を忘れていたのは悪かったのですが、その時は出し物の準備とかもあってバタバタで。。。。普段から自分のことそう思っているんだなってその時知りました。

 

第4位:「あいつは何もできねぇからなぁ。」(事業部長)

 <解説>

これは直接言われたわけではないんですが、部長よりも偉い事業部長がこう言っていたと後になって先輩から聞かされました。

どうやら新入社員研修の講師を誰にするかという話をしていたそうなんですが、候補に私の名前が挙がった際に事業部長がこう言ったそうです。もちろん私が講師になる案は却下されました。

 

第3位:「ahiru君には無理だよ。」(部長)

 <解説>

転勤の辞令を受けた際、部長が「転勤に関して不満とかあれば何でも言っていいよ」と言うので、「できれば住んだことのない街に転勤したかったですね」と返したら、「ahiru君には他の支店じゃ無理だよ」とさらっと返されました。

何気ない一言ですが、結構ぐさっときました。

その代わり私が他の支店に転属可能かは結構真剣に考えてくれていたようでした。

 

第2位:「なんでahiru君採用したんですか?」(先輩)

 <解説>

これは入社して一年目のころ、OJTを担当してくれていた先輩が事業部長に聞いていた内容です。

懇親会の最中だったのですが、そんなに距離の離れていないところで先輩が私のことを話しているようだったので、耳をすませてみると上記の言葉が聞こえてきました。。。

そう聞くってことはそういうことですよね。。。

先輩の質問に対する事業部長の回答は「○○が採用しろっていうから。。。」というものでした。なんだその人に言われたから嫌々採用しましたみたいな言い方。

 

第1位:「ahiru君、いつも指示した量の半分しか持ってこないじゃん」(課長)

 <解説>

これは以前ブログにも書きましたが、繁忙期に課長から出された指示に対して「無理です!」と反抗したら返ってきた言葉です。

最近、これを自分のいないところで人に漏らしているということが発覚しました。

資料ゼロから作るの苦手なんですよね。。。なにかフォーマットがほしい。

 

ということで嫌だった一言5選でした。

こうして総括してみると自分がどんな存在かが浮かび上がってきますね泣。

かの林修氏は、他人からの評価の方が的を得ている、というようなことを本に書いていました。あながち間違ってないようです。

fecunditatis.hatenablog.com

 他にも思い出せば嫌だったことはたくさんあるのですが、ざっとこんな感じです。

この記事をご覧の方も同じような経験をされたりするものでしょうか。。。

ということで今日は以上です。

8/24の不安:庄司薫『ぼくの大好きな青髭』新潮文庫

私には学生時代に繰り返し読んだ小説が3つあります。一つは三島由紀夫の『金閣寺』、もう一つが『仮面の告白』で、最後の一つが『ぼくの大好きな青髭です大学時代に他大学の文学部の友人に紹介してもらいました(いい友を持った!)。

 昨日、古書店へ行った際にハードカバーの古い『青髭』を見つけて懐かしくなって買っちゃいました。それでこの本のことを記事にしておこうと思い立ったわけです。

『ぼくの大好きな青髭』は庄司薫芥川賞を受賞した『赤頭巾ちゃん気をつけて』に続く「薫くんシリーズ」四部作のうちの一番最後の作品になります。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『白鳥の歌なんか聞こえない』、『さよなら怪傑黒頭巾』ときて最後に『ぼくの大好きな青髭』です。

赤、白、黒、青と作品名に色が入っているのに気付いたでしょうか。

どうやらこれは中国の神話の青竜、朱雀、白虎、玄武」から来ているらしいですのですが、恐らく作品の内容には関係ありません。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』はピース又吉直樹の『第2図書係補佐』という読書案内の本でも紹介されていたかと思います。皆さんぜひ。

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

  • 作者:又吉 直樹
  • 発売日: 2011/11/23
  • メディア: 文庫
 

 

薫くんシリーズは、学生闘争のため東大の入試が中止となった1969年を舞台に、名門日比谷高校の生徒庄司薫くんが様々な出来事に出くわしながら奔走する、という青春小説になっています(日比谷高校と言えば古井由吉夏目漱石谷崎潤一郎がOBですね、作家だと)。

1969年を舞台としていますが、まさに1969年当時に書かれた作品なので、今では死語になったサイケデリックとかフーテンとかゲバ棒とかゴー・ゴーパーティなんて言葉も出てきます。

1969年は学生闘争の激化した時代ですよね。

同じ時代を舞台にした作品だと三田誠広の『僕って何』とかがあったかと思います。タイトルのとおり学生闘争が絡んだアイデンティティの話だったと思います。

僕って何 (1977年)

僕って何 (1977年)

 

 

また翌年の1970年は三島由紀夫が市ヶ谷で切腹したり、よど号ハイジャック事件が起きたり、大阪万博が開催されたりしています(興味深い時代です)。

岡本太郎太陽の塔を建てたのもこの時代ということです(三島由紀夫もそうですが、岡本太郎の本も学生時代よく読みました)。

薫くんシリーズは、Wikipediaに「軽妙な文体」と書かれていますが、その文体がとても特徴的な小説です。

薫くんが饒舌に語りかけてくるような、勢いが止まらないようなそんな感じの語り方なんです。

しかもこの語り方、文体は村上春樹に影響を与えたと言われています。すごくないですか??

第1作目の『赤頭巾ちゃん気をつけて』新潮文庫の解説には以下のように書かれています。

 三島由紀夫林達夫など、好意的な評を寄せた作家・評論家もいるのだが、「文壇」の冷ややかな反応と、一般読者のあいだでの人気の爆発との差がすさまじい。しかし、約十年後には、たとえば村上春樹のエッセイに見られるように、この文体に影響されたやわらかい文章が、あとの世代の男性文筆家に引き継がれ、ごく当たり前のものになっていった。

村上春樹に影響を与えたことが書かれていますね。

さて、私が一番好きな第4部作目『ぼくの大好きな青髭』ですが、1969年7月20日アポロ11号が月面着陸するその日の新宿を舞台にしています。

四部作ごとにテーマが異なるのですが、この青髭は「若者の挫折」が一つのテーマになっていると思います。夢をもって上京した若者が集まる街、新宿が舞台になっているわけですね。

冒頭はなぜか、サングラスに麦わら帽子とサンダル、虫取り網、そして鼻の下に八の字の髭という格好をした薫くんが新宿の紀伊国屋書店(今もありますね)にいるところから始まります。

状況が呑み込めなく面食らってしまいますが、この後怒涛の展開を見せるので何度読んでも楽しめちゃいます。

決してハラハラドキドキものではないですが、主人公薫くんの周りにいろんな人が現れては何か語り掛けて去って、現れては去ってを繰り返していくので目まぐるしいんですよね。

読み終えたあとにものすごく長い時間がたったような気がするんですが、これはたった一日の話なんです。それだけ新宿での薫くんの一日が濃い。(内容自体もちょっと難解です)

そして語り掛けてくる人たちがみんな何かしら悩みを抱えていて、それでいてなんとかしようと奮闘している姿が印象的です。

それぞれの立場でみんながみんな夢に向かって奮闘するんですけれど、現実はそんなに甘くなくて、、、

この時代にありがちかもしれないですけれど、原始共同社会みたいなものを目ざす集団とか現れるんですけど、結局失敗しちゃうんですよね。当たり前だけど。

その他にも絵描きとかそういったアーティストを目ざす子とか、さらにそういった夢見がちな子を煽るだけ煽って記事のネタにした後はポイってしちゃうマスコミとか、そうした夢破れた青年たちを救う十字架回収委員会、さらにその十字架回収員会を研究する有志の集団等々、、、、

本当に色々な立場の色々な考えをもった人たちが薫くんの前に現れては何かを語り掛けて去っていくんです。

その語り掛けてくる言葉にも色々考えさせられますし、夢は必ずかなうよという脳内お花畑ではなくて若者の挫折する姿もしっかり描かれていて考えさせられちゃうわけなんです。

ここで十字架回収員会を研究する有志の言葉を引用しておきましょう。

「つまりですね、もしも今、この世界が確実に大変化しつつあり、人間もまた急速に変わりつつあると仮定したらどうでしょう。当然そこには、さまざまな理由からその変化に適用できない多くの人々が生まれ、また一方ではそういった人々の巨大な不幸を極度に敏感に感じ取る一群の人々がこれまた沢山現れても不思議ではない、ということになるでしょう?で、その一群の人々のなかに、たまたまその、他人の不幸を見逃してはいられないといった気持を抱くタイプの人間がいると、ここに或る種の人類救済のための委員会の類いが生まれることになるわけです。」

(中略)

「さてそこで、では現代における不適応の最も現代的典型とは何かと考えると、結局のところ、大きな理想を持つというところにそもそもの原因があると思われるわけです。何故かというと、正義でも善でも真理でもなんでも、とにかく大きくなればなるほど単純にならざるを得ない、というわけですからね。そこで、従ってその委員会などを構成するような人々から見ると、現代においては、古めかしくも大志などを抱いている青年たちこそ、あたかも古ぼけたでかい十字架をかついでよたよた歩いている、最も悲惨な不適応の典型の如く見えるのではあるまいか、ということになるわけです。

すこし長くなりました。夢を持つことと不適応の関係が記されていますね。大志を抱いた青年が現代の不適応の典型と書かれています。現代においては叶わない夢を持つことで不適応(エネルギーの不完全燃焼)を引き起こしているということだと思います。

またこれは庄司薫くんのセリフではないのですが、上記からなんとなく文体がこんな感じだということがわかるのではないかと思います。

ちなみにこの話の後に「私立軍隊入隊」の話が出てくるのですが、この私立軍隊というのは三島由紀夫が設立した「盾の会」のことではないかと私は睨んでいます。

三島由紀夫の生きた時代とも重なるのでこういうところで話が繋がるのも面白いです。

話を元に戻しますが、才能とか努力といったことに関してもいろんな考え方が記されています。

以下は主人公薫くんの友人のお父さんのセリフです。

「(中略)お金を入れれば何かが出てくる。お金を入れなければ、いくら一生懸命ボタンを押しても何も出てこない。そんな人生なんてほんとにそれでいいものなのでしょうか。私は納得できない。私は、どうしても納得できないんです。なんのとりえもなく才能もなく、とりたてて善いことをしたわけでもないのにそれでも仙人と娘が笑って待っててくれる。これでなくてはいけない、そうじゃないでしょうか。善いことをしたわけでもなく、しようと努力したわけでもなく……、だって努力するのだってとりえの一つ、才能の一つでしょう? いや、それどころか、言うことをきかずにいたずらしたり、悪いことをしたり怠けたりする、でも、それでも笑って待ってて、虹のような橋をかけて連れ出してくれる。それでこそ、ほんとの人生じゃないでしょうか。ね?そうじゃありませんか?」

極端な話ですが、そういった考えがあっても不思議ではないですよね。実際にはそんな人生ないかと思いますが、努力するのが美徳とされていなければ、もっと生きやすい世の中になると思います。

続いては本書のキーパーソンとなる人物のセリフです。

「あたしは馬鹿で、勉強が嫌いで、才能もないし、だからあたしみたいなのが生きていくには、おとなしくお行儀よくしている他ないって、よく分かったのね。だって、人間が好き勝手に生きるってことは、頭がよかったり、力があったり才能があったりする人にだけ許される贅沢なんでしょう? そうじゃない人は、周りの言うことをよくきいておとなしくしている他ないんでしょう? 人間はみんな同じだなんて嘘で、自由に生きる資格のある力のある人と、一生懸命おとなしくしていてそれでやっと生きていける人とがあるんでしょう?

そんなことないよ!って語り掛けたくなっちゃいますね。

新宿の熱い夏の日のことですが、最後は新宿御苑の夜空に包まれて終わりを迎えます。明るい時間のあの騒々しさとは打って変わって涼しげなゆったりとした雰囲気です。

小説の裏表紙に書かれている通り、「若者の夢と挫折を待ち受けて消費し発展する現代社会の真相」を突き付けられるわけですが、読んだ後はなんだかほっこりした気分になれます。

また時間があるときにじっくり読んでみたいな~と書いていて思いました。そしてまたじっくり考え事してみたい!

わかりやすいセリフだけ引用したので実際にはもう少し難解ですが、スルメみたいに読めば読むほど味がすると思います。めちゃくちゃ内容が濃いです。

一度読むと薫くんの語り口がクセになっちゃいます。ぜひ読んでみて下さい。

今日は以上!

8/23の不安:三島由紀夫主演映画『からっ風野郎』

昨日、Amazonプライム三島由紀夫主演の映画『からっ風野郎』見てみました。210円かかったかな?

三島由紀夫は映画にも出てたんですね~

三島が目立ちたがり屋だったということがわかる例としてよく引き合いに出されていると思います。実際には自分から懇願したというより業界の方から提案されて制作したようですが。。。。

三島が目立ちたがり屋で自己愛が強かったことは以前記事にも書きましたし、「三島由紀夫教養小説―『鏡子の家』vs『魔の山』―」という論文にも記載されています。

fecunditatis.hatenablog.com

 三島の心身には,現実が実在感をもたないという離人症的な 感覚,生きた現実から離れているという隔絶感,生命感のある生を生きていないという空虚感 がつねにつきまとっていた。三島はこうした空虚感を埋めるものを,他者から注目されるこ と,喝采されること,論議の的になることのうちに求め,時に自作の戯曲や映画化の舞台に出 演し,時にヌード写真集の被写体になり,果ては自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,切腹するとい う大事件を引き起こした。(髙山 2014)

上記の現実が実在感を持たない感覚を持つようになった原因は、幼少期に母親ではなく、祖母夏子の手によって育てられたことであるとされています。

※以下ネタバレ含みます。

からっ風野郎

からっ風野郎

  • 発売日: 2015/09/21
  • メディア: Prime Video
 

さて、『からっ風野郎』はどんな映画なのかと言うと、

傾きかけた落ち目な組の二代目ヤクザが敵対する組の殺し屋に命を狙われる中、惚れた女の一途な純情にうたれ堅気になろうとした矢先に殺されてしまうという異色のヤクザ映画である

 とのことです(Wikipediaより)。

出所したばかりのところ、ひょんなことから映画館のチケットのモギリの女性、芳江と出会って子供も出来てしまうんですが、敵対するやくざの組に命を狙われ、最後東京駅のショッピング街?で銃撃されてしまうんですね。。。

バッドエンドでしかもいきなり撃たれて死んでしまうので、個人的には尻切れトンボのような印象を受けました。

ただ、思っていたより面白い映画でした。

とくに私みたいな普段やくざ映画に馴染みのない人にとっては面白く観られるのではないかと思います。

お色気シーンもちょっとあったり、やくざの指詰めるシーンったもあったり、ストーリーもわかりやすいので、ちゃんとラハラドキドキ出来ました。

ヒロインの女性もきれいでした。「男はつらいよ」に出てくる妹のさくら(倍賞千恵子)みたいな感じです。

それに丁度60年前の映画でしたので、昔の日本の雰囲気を感じることもできました。

やはり今も昔も変わらんなという風景もありましたし、いつのどこの国の風景なんだというようなシーンもあって時代の流れを感じました。

三島由紀夫について言うと、評判通り大根役者でした。まあ、でも本職は小説家ですし、そこはご愛嬌ということで。。。

もしかしたら共感性羞恥?を感じてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、私が見た感じだと後半はそこそこうまくできていたと思うので、最初我慢すればあとは楽しめるかと思います。

まあでも三島は粗野な男に憧れていたらしいので、自分がなりたい姿を演じることができて本人はさぞご満悦だったのではないかと思います(映画の中の三島のDVが過ぎる!)。

ヒロインの女性を何度も殴りつけますし、子供ができたら「下そう」といって早速病院へ連れて行ったりほんと乱暴な男です。

お坊ちゃん育ちの三島は本当に対極な男を演じたのでした。

あと気になったのは演技以外だと三島の身体の動きのぎこちなさでした。

やくざ映画につきもののチャカを三島が弄ぶシーンが何度かあったのですが、チャカがまだ身体の一部になっていないことがよくわかりました。

映画の中でも「やくざのくせにビビってるんじゃないか」とか「二代目は度胸がない」とか周りから冷やかしを受けていましたが、あぁ、この二代目は真性のやくざにはなれないなということがチャカと身体の関係から見て取れました。

また、大瓶のお酒をコップになみなみ注いで、一気に飲み干すシーンも何度かあったのですが、栓の抜き方、コップの持ち方、ビールの注ぎ方がなんか違うような。。。。

これがこんな感じだと剣道やボクシングがどんな感じになるかなんとなく想像できます。

まあ、色々言っても私も運動音痴で未だに自分の身体が自分のものになっていないのですが、はやり身体の動きのぎこちない人はいつの時代も一定数いるし、どうにかなるものでもないんだなと少し慰めに似た気持ちを感じました。(歩き方がぎこちない人は生き方も下手っていいますよね)

自分が映画見て思ったことはだいたい以上です。

三島由紀夫やくざ映画に興味があるかたはぜひご覧になってください。

今日は以上! 

8/15の不安:他人にディスられることに関する一考察

「一考察」という仰々しいタイトルにしてしまいましたが、大したことは書きません。「一考察」と少しぶって書きたかっただけです。

さて、皆さんは他人にディスられることはよくありますか?

私はそこそこあります。そして、このディスられるということが大嫌いです。

このディスられるということに関して少し考えましたので、以下に書いておきます。

まず、このディスる、ディスられるというのは、明らかに若者言葉ですね。

いつ頃から使われ始めた言葉かわかりませんが、語源は不敬、侮辱する等を意味する「disrespect(ディスリスペクト)」から来ています。

尊敬するという意味の「respect(リスペクト)」に否定を意味する接頭語である「dis」が付いた言葉です。

disがつく言葉は他にもあると思いますが、「ディスリスペクトする」からディスの部分だけが残り、ディスる、ディスられるという言葉になったと思われます。

私はできることと、できないことの能力の凹凸がどちらかと言えば激しい方なので、普通の人であればできることが、人並みにできなかったりします。

ですので、このディスられるという状況にしばしば遭遇します。

何かが出来なかったら出来なかったでディスられますし、出来たら出来たで、「え?○○(私の名前)なのにそれできるの?」と言われることが少なくありません。

こうした発言は、もちろん私が色々なことを人並みにできないことを前提とした発言なので腹が立ちます(その発言の裏に愛があればまた別ですが)。

また、以前所属していた部署の上司はよく「○○君にはできないよ」と事あるごとに言う人でした。本人に悪気はなさそうでしたが。。。

仕事の出来に対して否定するのはまだわかることですが、私自身を否定するような発言はやめてほしかったです

なぜ、そのような発言をするのだろうか。。。

最近ずっとそんなことを考えていました。

しかしながら、人と関わっている以上、他人から自分を評価するような発言を受けるのは致し方ない部分があるのかなと思います。

他人が私に関して発言する場合は、それがポジティブな発言であるにせよ、ネガティブな発言であるにせよ、少なからず他人が私に関して興味を持っている証拠になります。

もし、他人をディスることと他人からディスられることを全く無くそうと思えば、他人に対して発言するのを控える他なく、それは完全に他人に対して無関心でいることになります。これは現実的にはありえません。

それに、完璧な人間なんて言わないわけですから、私のようにディスられることを極端に嫌ったり、自分は人からディスられるような人間ではないと思い上がるのは、少し傲慢なような気もします。

もちろん、人が傷つくような発言をするのはよくないですし、人を評価するような発言は控えるべきですが、人と関わっている以上、そういった状況に出くわすのは仕方がないと言えそうです。

どれだけの頻度で相手からディスられるかというのは、普段関わる人の数、その人の能力の程度、その人のキャラに寄るかと思いますが、一番大事なのはキャラだと思います。

自分がディスられるのが嫌ならば、ディスってきた相手を非難する前に、自分がそういったことが嫌いであることを意思表示しなければなりませんし、そういった発言を向けさせない雰囲気を作るのが大事かもしれません。

(雰囲気についてはやり過ぎるととっつきにくい印象を与えるかもしれません)

言葉で伝えるか、それでも伝わらないのであれば、怒るという手段をとるべきです。

それができないのなら、現状の私のように相手からディスられるという状況に甘んじなければなりません。

ディスられたからといってくよくよ悩む前に他にやるべきことがあるということです。

また、怒りが何かしらの原動力になることもあります。いつかディスった奴らを見返してやる!そんな感じです。

現状私はそれで生活が出来ているのかもしれません。ディスられるという状況はなるべく避けた方がいいですが、そうした状況に出くわしたとしても、自分は今原動力となるエネルギーを得たぞとポジティブに捉えるのもありかもしれません。

モヤモヤしたら割り切ること、そしてそれを原動力として何かに昇華させることが大事だと考えたのでした。

ちなみに、林修は「見返してやる!」という状況をそもそも作らないことが肝心だと本の中で述べていました。確かにそうだけど、なかなか厳しいことを言うと私は思いました。皆さんはどのように考えますか?

fecunditatis.hatenablog.com

 今日は以上です。


※追記

あと「人生経験薄そう」とかも腹立つ。

8/13の不安:最近考えていることの補足(深く勉強することが自分にとって大事であること)

最近記事の更新頻度が減ってきました。理由は二つあって、一つは来月と年末に資格試験を控えているので、ブログに割く時間を意図的に減らしているというのと、もう一つは単に悩む回数が減ってきたので書くことがないというのがあります。

悩みが減ってきたのは、異動して環境が変わったのが大きいです。環境って大事だなと改めて思いました。

やはり、自分にネガティブな言葉を投げかけてくる人からは遠ざかった方がいいです。

自分に投げかけられた言葉を無視しようとしても、やはり言葉には「言霊」があるので、自分に影響してきます。自分はよく頭の中でリフレインを起こしていました。

それに、どうしても自分のいる環境を常識と思い込んでしまうところもあるかもしれないので、悩んだら環境を変えてみるのもありかもしれません。

ちなみに私は自力で環境を変えたわけではなくて、たまたま環境が変わっただけなので、なにも偉そうに言う権利はありませんが、お悩み中の方考えてみてはいかがでしょうか。

最近やっと自分の調子を取り戻している気がするので、いつか自分のことをディスった人たちを見返したいと思っています。

 深く勉強することが自分にとって大事であること

さて、本題ですが、前回の記事で、「自分のこだわりをもっと追究することで生きる実感が得られるのではないか」というようなことを書きました。

fecunditatis.hatenablog.com

 これについて考えていることを追記しておこうと思います。

考えていることはタイトルにもある通り、深く勉強することです。

一つのことに的を絞って勉強して、何か本質とか、真理に近い何かみたいなものに触れてみたいと思っています。

 アスペルガーは根源的な思考を好むということなので、私はそういった考えに囚われているのかもしれません。

fecunditatis.hatenablog.com

 

深く勉強して本質に触れたいというのは、例えば、夏目漱石の「私の個人主義」の中で語られているように、金脈を掘り当てるようなそんな感覚です。

それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

 

そして、もう一つ例えば、『君たちはどう生きるか』の中の、叔父さんがコペル君に宛てた手紙の中で語られているような、学問という山の麓の深い森を分け入り、ついには頂上に達するようなそんな感覚です。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

  これだけいえば、もう君には、勉強の必要は、お説教しないでもわかってもらえると思う。偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。

 

さらに例えば、鋼の錬金術師に出てくる「真理の扉」の向こう側へ行くようなそんな感覚です。

鋼の錬金術師全27巻 完結セット (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師全27巻 完結セット (ガンガンコミックス)

  • 作者:荒川 弘
  • 発売日: 2010/12/15
  • メディア: コミック
 

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https://chomanga.org/

 

最後に例えば、「エヴァンゲリオン」に出てくるターミナルドグマまで降り立つようなそんな感覚です。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • メディア: Prime Video
 

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https://room666.blog.fc2.com/

お分かり頂けるでしょうか。

とにかく勉強して、奥深くか、地中深くか、天高いといころまでたどり着きたい。

何も自分は世紀の発明をしたいとかそんなことを言っているのではなくて、専門書1冊を深く読み込んでみるとかそういった勉強がしたいと言っているのです。

最近やっと手を付けだしましたが、しばらく時間が掛かりそうです。

それに勉強にはキリがないので、いつその本質やら真理とやらに辿り着けるのかはわかりません。

とりあえず今積読している専門書が読めるレベルには達したいと思っています。

 

ちなみに、上記の「深い勉強」のイメージは、奥深くか、地中深くか、天高く、という三方向のどれかに奥行きを持ったようなイメージでしたが、三島由紀夫はそうではなくて私たち自身を外界と分かつところの皮膚にその本質やら真理やらを求めていたようです。

以下、『太陽と鉄』から引用します。面白いので読んでみて下さい。

  人間の造形的な存在を保証する皮膚の領域が、ただ感性に委ねられて放置されるままに、もっとも軽んぜられ、思考は一旦深みを目指すと不可視の深淵へはまり込もうとし、一旦高みを目ざすと、折角の肉体の形をさしおいて、同じく不可視の無限の天空の光りへ飛び去ろうとする、その運動法則が私には理解できなかった。もし思考が上方であれ下方であれ、深淵を目ざすのがその原則であるなら、われわれの個体と形態を保証し、われわれの内界と外界をわかつところの、その重要な境界である「表面」そのものに、一種の深淵を発見して、「表面それ自体の深み」に惹かれないのは、不合理きわまることに思われた。

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

fecunditatis.hatenablog.com

 今日は以上!