アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

8/5の不安:最近考えていること ②大学時代に生きている実感が薄かったこと

昨日の続き。

②大学時代に生きている実感が薄かったこと。

最近よく学生時代のことを思い出す。大学時代6年間はなんだか生きていた実感が希薄で、その間だけぽっかりと時間が空いているような感覚がする。高校の頃の自分と大学時代の自分と今の社会人になってからの自分が連続していないような気がする。他の人もそんな感じなのだろうか。

もう過ぎ去った時間なのだから別にどうしようもないのだけれど、やはりその大学時代だけがぽっかりと抜け落ちているような気がして、なんとかその穴、隙間を埋めたいような思いに駆られることがある。

人生の夏休みと呼ばれる時間を自分も学費を払って(親のすねを齧って)過ごしたのだけれど、それが自分の中で最高の時間とならなかったのが、腑に落ちない。

確かに、大学時代の全部が腑抜けた時間だったわけではない。交友関係が狭かったとは言え、それなりにたくさん旅行もしたし、親友と呼べる友人もできた。これを考えれば贅沢を言っているようになるが、自分の中で消化不良を起こしているのもまた事実だと思う。

なぜ生きている実感が少なかったかといえば、理由はいくつかあると思う。

簡単なところからいうと、まず自分が過ごした大学は行きたい大学ではなかった。

それだからして、入学してから自分がなぜそこにいるのかがわからなかった。どうして今見ている景色を自分が見ていることになっているのかがわからなかった。とにかく何もかも不本意だった。

大学でいうと学科も自分が学びたい分野ではなかった。

本当は工業デザインのようなものが学びたかった。なんとか「環境デザイン」なるものに縋りついたが、蓋を開けてみれば、ただの土木工学科だった。

会社に入ってから実務を通して面白く感じているところもあるけれど、大学の講義はほんとうにつまらなかった。土木は経験工学でかっちりしていない。良いところを強いて言えば学問的に懐が深いところだと思う。どういうことかといえば、幅広い分野を包含する部分もあって、なんでもかんでも土木に結び付けようと思えばできると思う。土木は工学だけれども、建設費用のことを考えれば経済学が出てくるし、避難行動のことを考えれば心理学が出てくる。景観のことを考えれば民俗学・文学が出てくる。こういった具合に土木は色んな分野を包含しているから懐が深い。もともとデザイン系を学びたかったから、それと繋げて景観工学は少しだけ自分で齧ってみたこともあるけれど、それは学生になってからしばらく経ってからのことだった。

そして、腑抜けた時間となった原因は、学生時代多くを過ごした部活にもあると思う。

自分はとある運動部に所属していたけれど、運動は大嫌いだった。それでも、そのスポーツをいやいや続けてしまった。とにかく運動音痴であることがコンプレックスで、自分が運動をやっているという事実だけが欲しかった。

結局そのスポーツは社会人になっても続けて、全く上達しないし、自分が満足できないことを肚の底から実感してこの時にやっとやめる決心がついた。

なんであそこまで苦手なものをずっと続けていたのだろうかと今では不思議に思うこともあるけれど、コンプレックスというものはそれほどまでに自分に強く突き動かすものだ思う。三島由紀夫の『太陽と鉄』を読むとそれがよくわかる。

fecunditatis.hatenablog.com

 

部活動では、多くを共にした同期との過ごし方にも少し問題があったと思う。

彼らは、ゲーム(特にスマブラマリオカート)、ビリヤード、ボーリングが好きで、よくそれに付き合わされた(別に自分はいなくてもよかったが)。でも、自分はゲームとか身体を動かすものがほんとに嫌いだった。とにかく何でもうまくできない。

自分も自分でそれらを嗜むことが所謂大学生への道なのかとよく考えもせずそれらに多くの時間を費やした。はやり今考えてみるとああいった時間は心の底から喜べる時間ではなかったし、どれも自分にとっては必要のない時間だったと思う。

そして、もう一つ考えられるのが、自分にもともと主体性がなかったのが原因だと思う。

これは夏目漱石が『私の個人主義』という講演会の中でも言っていることなんだけれど、ただ浮き草のように流されて生きていたから、生きている実感が薄かったのだと思う(漱石はこうした生き方とロンドンの曇天とで所謂神経衰弱に陥ったらしい)。

(※「私の個人主義」は青空文庫で公開されている。以下に大事なところ引用しておこう。) 

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。

 (中略)

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

 (中略)

それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

 (中略)

あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。

 

 これが一番大きな理由だとは思うのだけれど、少し仕方ないとは思っている。自分は生まれつき保守的な性格だったし、どちらかというと貧乏な家庭だったから、あれが欲しいとか、これをやりたいとか言える環境ではなかった。

さいころ兄が卓球を習いたいと言って聞かなくてかなり怒られていたのを間近で見て、なぜ親を困らせることを兄は言うのだろうと考えていた時もあった。また、高校生の頃に無印良品の500円のカラーケースを欲しいとこぼしたところ、「あんたがそういうようなことを言う子だとは思っていなかった」とたった500円ばかしのことで悲しげな表情をされたことを今でも覚えている。とにかく親の顔色を窺うことが正だと思っていたし、やたら母親の言葉に縛られていたと思う。

それが急に大学生になって自由な時間を与えられても途方に暮れるのは当たり前だ。

それにアスペルガーは外界の刺激に対して反応するだけで自動的に生きる傾向が強いから、それも相まって大学生になってもやりたいことがわからずただ流されるままに生きることになったのだと思う。

fecunditatis.hatenablog.com

 

さらにもう一つ理由をあげると女の子との交流の絶対量が不足していたこともあると思う。これは今も大きく状況は変わらないから後悔しても仕方なし。来世に期待しよう。

ざっと上に書いた通り、自分は進むべき道も分からず主体性なくただ茫然と時間が過ぎるままに過ごしていたのが生きている実感が薄かった原因になると思う。

それならば、主体性をもって、自分がやりたいことをとことん突き詰めれば、この穴が少しでも塞がるのではないかと今は考えている。

進んできた道はもう変えようがないから、とにかく将来のことだけを考えよう。

アスペルガーはこだわりが強い。これまで自覚のあった部分に関してはそれを抑えよう抑えようとしてきたけれど、今度はそれを逆手にとって、自分のこだわりをもっと追及して自分らしさを取り戻してもいいのじゃないかと思っている。

漱石の言葉にも出てきている「こだわり」、三島由紀夫『青の時代』に出てきた「固執」、千葉雅也『勉強の哲学』に出てくる「享楽的なこだわり」。。。。

fecunditatis.hatenablog.com

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こういった自分の身体に根付いたこだわり(言葉じゃ説明できないけれど自分がやってみて妙に喜びにつながる何か)を突き詰めた先に自分が生きたという実感がつかめるのではないか。

今は、プラモデルを作ったり、勉強したりしている時間がとても幸せに感じる。これをしばらく続けてみようと思う。

あとは一人でもいいからキャンプしてみたいな~

 

ちなみに、、、

本来進みたかった道から逸れた人がその後、今の自分があるのはあの時の自分があったからとかなんとか言って、自分の進んできた道がベストだったと結論付けたりするのはどうかと思っている。

進みたかった道が本当はベストだけれど、今の自分の進んできた道もそれはそれでよかったと思う(ベストではないかもしれないけれどベターだ)、というのが正しい。

なぜなら、本来進みたかった道を否定して、現在の自分を肯定するのは単なる自己合理化だし、明らかに欺瞞だと思うから。

将来のことに関しては「やってみなきゃわからない」というくせに、過去のことに関してはやっていないことは無視して、現状を肯定するのは早計だと思う。

聞いたことがあるのが、早稲田大学に進みたかったけれど、早稲田に進学していたら、今の職業にはついていないから、早稲田に行かなくてよかった、というものだけれど、それは違うと思う。

どう考えても、早稲田以下の中堅私立に進んでよかったとなることはない。

早稲田に進んでいたらそれはそれでいい結果を招いたかもしれないし、今の道がベストとは限らない。

例えば、森見登美彦の『四畳半神話大系』なんかだと、主人公が大学に入学してからのストーリーが平行世界でいくつも展開されているけれど、一概にどの世界線の主人公の人生がベストということにはなっていなかったと思う(うろ覚え)。

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過去についても同じでやってみなきゃわからないのだから、進みたかった道を否定することは間違っていると思う。

とにかく、人が自己合理化を伴う自己肯定、現状肯定をしているのを見るのも嫌だし、その手を自分に適用するのも嫌だと思っている。

自分は現状に満足しても過去を肯定することはしないつもり。

 

今日は以上!


※追記

学生の時、生きている実感が薄かったことを「現実に触れていない」と表現していたのだった。

ただし、自分が現実に触れていないという時、それは単に人との接触が少ないこと、要は孤独であったことを意味するのだった。

人と触れ合う事が生きることでもあるだろうと思う。