アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

7/12の不安:千葉雅也『勉強の哲学―来るべきバカのために―』文藝春秋

 目次

 近況報告 

  長らく記事を書いておりませんでした。

2週間近い出張に出ていてその間、ブログを書くのを諦めました。

出張中はずっと外の現場に出ており、拘束時間が長く、ホテルに帰ってきてからは残務に追われるという日々を過ごしたためです(ブログを書く時間が全くなかったわけではありません)。

この間ずっと車移動だったわけですが、事故を起こさず帰ってこられてうれしく思います。また、運転技術も少し向上したようで、大人に少し近づいたようなそんな気がしました。

ただ、出張中にTwitterを何度か使用しましたが、やたらと人の悪口を書いてしまいました。

あれは私の本意なので前言撤回はしませんが、不快に思われた方がいればすみません。大学生大学生した奴らが嫌い」というのは、私自身が大学生だったころから思っていることです。

大学生らしい大学生というのは、ある意味私が憧れていた存在ではあるのですが、自分がそうはなり得ないために、内心で攻撃の対象としている節があります。

それで、出張中に苛立ったのは、駐車でてこずっているところを大学生らしき集団がなにやら馬鹿にしたような視線を送ってきたことです。

あれには本気で腹が立って〇えろと思いました。

ですから、私は器用に生きて人を小ばかにしているような大学生みたいな群れている集団が大嫌いです。

いつかああいう奴らをぎゃふんと言わせたい。。。。

自分はそのために生きていると言っても過言ではありません。

ぎゃふんと言わせるで思い出しましたが、学生時代、部活の同期に大学院へ進学することを伝えると、「お前が大学院行っても無駄でしょ」と言われたことがあります。

この時何も言い返せなかったのですが、ひどく腹が立ちました。ほんとどういう思考したらそういう言葉を人に向けられるのか。今でも根に持っています。

今は大学院に進学したおかげで、就活は満足いく結果となったのでぎゃふんと言わすことが出来たと勝手に思っています。

とは言え、あいつは私のことなんか全く眼中にないと思いますが。

その時の勢いだけで人を馬鹿にするのはやめましょう。盛者必衰ですから、謙虚さが大事です。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(平家物語より)

謙虚さが大事と言っておきながら、私は小ばかにされることが嫌いなので、人の目に見える圧倒的な力がほしいと思っています(念のため書いておきますが、人にいじられてムキになって怒るようなことはしません)。

それにはこの怒りを勉強に昇華させるほかに道はない。

青色発光ダイオードノーベル賞をとった中村修二さんも「Anger(怒り)が原動力」みたいなことを言っていましたよね。

ちなみに、「人から馬鹿にされるのではないかという被害妄想を持つのは、裏を返せば自分が人のことを馬鹿にしている証拠。被害妄想を持つのは卑しい考えだ」というような理論がありますが、そんな鶏が先か卵が先かわからないような考えは、今のところ自分に受け入れる余地はありません。 

 

『勉強の哲学―来るべきバカのために―』

 さて、本題ですが、勉強が大事ということで千葉雅也『勉強の哲学』を記事にしようと思います。

本書の前半の内容をかねてから記事に整理したいと思っていたのですが、それなりに読むのに頭を使うので、随分と読書時間を確保するのに時間が掛かってしまいました。

ぱっと読んだ感じなんだか難しく書きすぎているような印象を受ける本で、少し難解に感じるところがあるのですが、私は気に入って何度か読み返してきました。決して勉強だけの話に留まらないんです。コミュニケーションや言葉といった観点で読んでも勉強になると思います。

以前、一部を記事の中で紹介したこともありました。

fecunditatis.hatenablog.com

 勉強することの意味や本の読み方が本書では説明されているのですが、それが独特な言葉で説明されています。

著者の方がフランス現代思想を専門とされていて、そういった内容を背景に言葉がチョイスされているところもるようです。(そうはいってもフランス現代思想についての知識が全くなくても本書の内容は理解できるのでぜひ手に取ってみて下さい。)

最初は、本を読む人にとってはそれなりに当たり前のことが書いてあるし、本を読まない人にとっては難しく説明しすぎているし、どういった読者層を想定しているのだろうかと不思議な印象を受けました。

後になって一つ理解したことはこれは著者による言葉を使ったブロック遊びなんだということでした。

どういうことかというと、「勉強」についての説明について、著者なりの言葉のブロックを用いて再構成した内容となっており、これは出版社を巻き込んだ壮大な〇慰行為であるということです。

本書の中でも言葉はレゴブロックと同じだと説明されていますし、また、言葉の音(名前:シニフィアン)と意味(概念:シニフィエ)とを外した言葉の使い方についても触れられているので、私が言っていることはあながち間違いでもないと思います。実際、こうした類の言葉の使い方を本書では「玩具的な言語使用」と表現したり、「言葉のダンス」と表現したりしています。

何でも「言えるには言える」わけです。

 言語はそれだけで架空の世界をつくれる。だから、小説や詩を書くことができる。先ほどの「リンゴ」は現実に根ざした普通の言葉ですが、何を指すのでもないたんなる言葉をつくることもできる――「リンゴンゴン」とか。さらには、論理的にありえないことまで「言えて」しまう――「リンゴはクジラだ」とか、「丸い四角形」とか。

 こうした言語の自由さに、あらためて驚いてほしいのです。

 

こうした言葉遊びに関連して一つの詩が紹介されています。

 一つ一つの背骨に音色を尋ねてみる。本当は

 いない犬が歩いていた、水蒸気の多い場所で

 犬が本当にいる

 おお、生き生き健康体操

 動物には人間にできない動きをすることがあ

 る。このような関節の数、

 このような関節の、柔らかい液体の種類

 (小笠原鳥類『小笠原鳥類 詩集』現代詩文庫、三十七頁)

 小笠原鳥類さんの詩集ですね。

私はこれを読んだ当時、これが詩なのか!と衝撃を受けました。

過去に上記の紹介されている詩集を手に取り、このブログでも紹介したこともあります。

fecunditatis.hatenablog.com

 

なぜ言語について説明されているか

 さて、なぜ本書でこのように言語について説明がなされているのかというところを説明したいと思います。

本書では、勉強することで自由になることができると説明されています。これまでの自分を破壊し、生まれ変わることができると。そして、この自由を手に入れるキーとなるのが「言葉」であるというようなことが書かれています。

どういうことかと言うと、人間は「言語的なバーチャル・リアリティ」を生きているので、新たな可能性、新たな空間を作るには言語を用いる他はないということです。

「言語的なバーチャル・リアリティ」を生きているということがどういうことかわかりますか?

私の個人的な理解ですが、言語を用いてしか現実を理解できないということだと思います。モノには名前が付いていますし、思考する際に言語を用いていますよね。言葉があるから現実を認識することができる。現実を言葉というフィルターを通してしか見ることができないわけです。

三島由紀夫は確かこのことを「言葉の抽象作用」と言っていました。

現実を捉えることが言語の世界を生きることなのであるから、新たな可能性を切り開くためには言語を用いなければならないし、言語偏重の人になることが重要だということです。

そして、なぜ言語偏重になることと勉強が繋がるのかといえば、勉強することによって、少なからず新しく言葉を覚えることになるからです。

本書では、新しい言葉に出会って、その言葉を口にする時に感じる違和感に焦点を当てています。

例えば、会社に入ってその業界の専門用語を知ったとします。はじめのうちはなんだかその言葉が自分にまだ馴染んでいないような気がすると思いますが、そのうちその業界用語を自分でも使いこなす日が来ると思います。

この最初の自分に馴染んでいないような感覚(言語の不透明性)を感じることで、言葉というものが現実とは分離していること(言語の他者性)に気づき、それを契機として言語を操作するという意識を持つことが大事ということです。

言葉というものは現実に密着していないので、必ずしも現実に即した言葉を使う必要はありません(なんでも言えるには言える)。

これで、最初の「玩具的な言語使用」の話に戻ります。

いまは非現実だとしても、「私は上海で働く」という可能的な状況を、言語を使って想定することで、その実現に向けてアクションを始めることができる。あるいは、「貧困に苦しむ人がいない世界」という言葉の並びをつくることで、それを旗印として社会運動が始まる。

一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになるということである。

ここで、上記の「一般勉強法」とは、新たな業界に入って言葉を覚えたときの違和感を大事にするような言語への意識を高める勉強のことを指しています。

自由な言葉遊びによって生の可能性を豊かに想像することができるということです。

そして、言葉遊び的な態度で言葉に関わることは言語偏重になることであり、 深く勉強するとは、言語偏重の人になる事である。。。。

意訳に近いところが多いですが、以上が本書の第一章で語られていることです。

この第一章で印象的なところは、人間は完全に自由になることはできないという件りです。私は現状が嫌になって転職とかの可能性を考えたりすると、いつもこの話を思い出します。今ここを抜け出しても、また耐えられるかどうかの別の環境があるだけかと。。。。

  しかし、あるとき、「別の可能性」を考えたくなるかもしれません。考えざるをえなくさせる出来事が、何か起きるかもしれない。マゾヒズムにも限度があるでしょう。限度を超えたストレスを受け続けているなら、どこかへ避難すべきです。

しかし繰り返しますが、完全な自由はありえません。だから、どれほど苦しくて自由を求めて逃げ出しても、それは「耐えられる範囲で不自由であるような別の環境」への引っ越しをすることでしかありません。

 私たちは、あるマゾヒズムから、別のマゾヒズムへと渡り歩く――。

繰り返しになりますが、完全に自由になることはできないので、その環境に居ながらにして距離をとる必要があり、そのためには現実から分離した言語によって、その他の可能性を考えることが大事ということになるようです。。。

 

アスペの人がやりがちと思われる会話の仕方

 第二章では、「言語をそれ自体として遊びで操作し、可能性をたくさん描く」方法が説明されています。

別の新しい可能性を考えるためには、自分の今いる環境に癒着していない何か「ノリの悪いこと」を考えてみる必要があり、非現実的な(浮いた)言語の使い方をする必要があるということです。

そうしたノリの悪い言語の使い方のテクニックを知るために、「場から『浮いた』語り」(会話の仕方)がいくつか分析されています。そのうちの一つの語りは、アスペの人がやりがちではないかと思うのです。

その語り(会話の仕方)というのが、勉強によって何かに詳しくなった時にやりがちで、本書で「縮減的ユーモア」と説明されているものです。

それは例えば、皆でドラゴンボールの話をして楽しんでいるときに、話の流れを無視して、一人だけヤムチャのうんちくを語り過ぎてしまうというような会話の仕方です。

 『ドラゴンボール』は確かにみんなの主題なので、共同的に言語行為をしていると半面では言えますが、しかし、半面ではたんに自分の話に没頭し、孤立し始めている。

 あるいは、「自閉的」な状態に向かっている。

 縮減的ユーモア=「不必要に細かい話」は、自閉的な面を持っている。

「自閉的」と書かれていますね。

 今では、当たり前のように理解していますが、これを読んだ当時ははっとさせられました。だから、自分の語りは孤立してしまうのか。。。と。

 この章の会話の分析は本書の原理論として中核をなしています。

少し難しいのですが、自分のための備忘録として以下に内容を整理しておきます。

ちなみに長くなるため、本書で使われている用語の説明はしません。

気になる方は手に取ってみて下さい。

 

第二章原理編のまとめ

  場から「浮いた」語り(会話)の分析

勉強の本質を知るため、場から「浮いた」語り(会話)を分析してみる。

会話には「こういう話をするもんだ」という「会話のコード」がある。それは目的的・共同的な方向付けであり、例えば、不倫の話題について芸能人を批判し合い価値観を共有しあうというような、いわば「空気」として共有されているものである。

会話のコードは話の流れが転々とするように常に不確定であり揺らいでいる(コードの不確定性)。

自分の今の環境のノリに抵抗する新たな自分を言語的に作り出すために、この会話のコードを転覆させることを考えてみる。

ここで、コードの転覆に必要となる本質的な思考スキルがアイロニー(ツッコミ)とユーモア(ボケ)である。アイロニーとユーモアはコードを転覆させるための対極にある方法である。

コードを転覆させるために、まずコードを客観視した上で、アイロニーによってコードを「疑って批判」し、その次にユーモアによって「ズレた発言」をすることを考える。

(0)最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する

(1)アイロニー:コードを疑って批判する

(2)ユーモア :コードに対してズレようとする

ただし、アイロニーもユーモアも過剰になるとナンセンス(無意味)な「極限形態」に転化するため、ナンセンスにならない範囲でコードを転覆させる必要がある。

ナンセンス(無意味)は玩具的・自己目的的な言語空間であり、そこには文学がある。プログラミングや料理等の実用的な勉強は、この玩具的・自己目的的な言語空間の一部である。

 

アイロニーの仕組み

 アイロニーは自覚的なツッコミであり、コードを疑い批判するものである。

不倫の話題に「そもそも不倫は悪なのか?」、「そもそも悪とは何か?」とつっこんでいくように、元のコードから、アイロニーによる批判によって出現する高次のコードに移ることを「超コード化」と呼ぶ。超コード化は推し進めると、コード不在の状況に陥いるが、これは「超コード化による脱コード化」と言える。

上記のように、アイロニーによる根拠づけの疑いは際限なく深まることになり、最終的には言葉の真の意味(現実に一致した究極の言語)を知りたいという欲求に繋がる(アイロニーの過剰)。

しかしながら、言葉は環境依存的であり、言葉の意味は環境における「用法」でしかないため(ウィトゲンシュタイン的に)、結局はそれに到達することができない。

したがって、言葉の真の意味に到達したいという欲求は、環境依存的でしかない言語を「無化」したい、現実それ自体に触れたいという欲求となり、アイロニーは、「言語なき現実のナンセンス」へと突き進むことになる。

ここまでを一度整理すると以下の通り。

(1)ある環境に縛られて、保守的に言語を使っているのがデフォルトの状態である。

(2)アイロニーによって、コードを疑うことで外に出ようとする(現実それ自体に触れたい=言語的なバーチャル・リアリティを抜け出したい)が、それは果たすことができない(結局、環境の外には別の環境があるだけ)

(3)第三段階として、次の手を打つ。すなわち、環境の複数性=言語の環境依存性を認め、アイロニーによって言語の破棄に至るのではなく、諸言語の旅に出る(ユーモアへの転回)。

 

ユーモアの仕組み

ユーモアはコードを拡張するものである(コード変換)。

例えば、不倫の話題に「不倫ってさ、音楽なんじゃない?」というような浮いた発言をし、ユーモアにより話題を転換するようなものである。

話題が転々とするように、(拡張的)ユーモアによるコードの変換には際限がなく、コードの不確定性を最大限に拡張すればどんな発言も繋がることになる(繋がっていると解釈しさえすればよい)。

ただし、ユーモアが過剰になると、コードが増えすぎて何の話をしていたのかわからなくなるような状態に陥る。これを「コード変換による脱コード化」と呼ぶ。

あらゆる会話・発言が繋がるということは、言葉自体の意味=用法が無限に広がることを意味し、ユーモアは、接続過剰による「意味飽和のナンセンス」になる。

ここで、接続過剰とならないような拡張の逆となる縮減的ユーモアについて考えてみる。

縮減的ユーモアは、新しい見方へコードを変換するものではなく、コード全体をコードの一部へ縮減するものである。会話の中で、一人不必要に細かい話をしてしまうのが縮減的ユーモアであり、縮減的ユーモアには自閉的な面がある。

縮減的ユーモアによる語りは「享楽的なこだわり」のために口を動かしているだけである。

縮減的ユーモアが過剰になると、そこに残るのは、自閉的・独語的に語られている音であり、言語の非意味的形態である。(??あまりよくわからない)

したがって、縮減的ユーモアの極限は「形態のナンセンス」である。

我々が何を享楽的に語るかは個人的な「重みづけ」によるものであり、それぞれが自分を個人的な存在とする非意味的形態の遊びを持ってる。

個々人が持つ様々な非意味的形態への享楽的なこだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする(享楽的なこだわりは勉強を通して変化する可能性がある)。

これを「形態の享楽によるユーモアの切断」という。

 

以上が第二章のまとめです。

第三章以降では、この享楽的なこだわりを硬直化、絶対化させないために、アイロニーによってこだわりと出合い直す方法が示されています。

自分がこだわってしまう事柄を再考することによって、勉強すべきテーマを見つけようというものです(恐らく)。そしてそのテーマについて勉強することが個人の可能性を広げることになるというのが全体の話だと思われます(後半はあまりしっかり読んでません)。

ただし、勉強の次元で言うと、アイロニーは追究(深追いのしすぎ)であり、ユーモアは連想(目移り)であるため、何をどこまで勉強するのか、という有限化が大事だということでした。

その他、実践編の内容については省略します。

 

最後に、、、

  言語で新たな空間・可能性を作るとはいっても、読書で現実逃避するように結局は頭の中にある世界を生きるしかないのかとも思いましたが、そうではないですよね。

言語によって他の可能性を考える。それが行動の動機づけとなる。行動が変われば現実が変わる。こういう寸法だと思います。

ただ、頭の中の世界を生きるのも悪くないかもしれません。

最後に夏目漱石の『三四郎』から、主人公の三四郎が熊本から上京する途中の電車内で広田先生なる人物に出会ったときのシーンを青空文庫より引用しておきます。

すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓《ひいき》の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯《ひきょう》であったと悟った。
 その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は別れる時まで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところにいるものと信じて、べつに姓名を尋ねようともしなかった。

「日本より頭の中の方が広いでしょう」という言葉が印象的ですね。頭の中の世界を生きるのも悪くはないかもしれません。

ということで今日は以上です。