アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

6/2の不安:億劫なものほど先延ばしにしてしまう件(解決策は筋トレ)。

今日も無事に終了しました。

出張先でも車を運転させてもらえたし、事故なく終えることができました。

よかった。よかった。

運転苦手なんです。↓↓

fecunditatis.hatenablog.com

 

それと最近ずっと気に掛かっていた仕事の件が少し進捗を見せたので、安心しました。

ただこの件に関して上司とやりとりする際は緊張しました。そのおかげでずっと胃が痛かったです。

本当は4月のうちに手を付けておくべきことだったのですが、手を付けるのが億劫過ぎて今更動き出したのでした。

億劫だと思うほど先延ばしにして心の重荷を増やしてしまうんですよね。

億劫過ぎると、その仕事のことを考えたり、実際に手を付けたりした際に胃が痛くなって、耐えられません。

その痛みと不安を乗り越えるのに必要なのは、毎回焦りなんですよね。

ほんとにお尻に火がつかないと乗り越えられないんです。

なんか不安がパーっと消えるクスリみたいなのないかなーとか、もっと不安な気持ちを紙に書き出して少しでも不安の正体を明らかにするのが大事なのかなーとか考えました。

「○○終わったら、自分へのご褒美に△△を買う」等の手は自分には効きません。

そしてなんですが、夜に三島由紀夫『太陽と鉄』を読んで、筋トレが最高のソリューションである通り、やはり先延ばしに対する解決策は胃痛に耐えられる肉体を手に入れることだと思いつきました。

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

 『太陽と鉄』は三島由紀夫が筋肉を鍛え始めた契機や死に対するフェティシズム的な考え方が記されています。(難解ですが、その分読み応えがあります。)

そういえば以前も少し記事に書きました。

fecunditatis.hatenablog.com

 胃痛に耐えられないなら、耐えられる肉体を手にするしかない!そう考えました。

ムキムキになる→胃痛に耐えられる→先延ばししない。。。という寸法です。

今と違う肉体を手に入れられれば、見えてくる景色も考え方も変わってくるでしょう。

自分の気の弱さは、この虚弱な肉体に起因しているはずだ。。。

最近は英語に触れることと、ブログの記事を書くことを習慣にできていると思うので、筋トレも同じように生活の中に組み込んでいきたいなと考えています。

かなり長期戦になることは目に見えていますが、30歳になるころには何某かの成果は出ているはずです(その時までに継続できていればですが)。

まだ半分も読んでいませんが、最後に『太陽と鉄』の気になった箇所を引用しておきます。

 ……ずっとあとになって、私は他ならぬ太陽と鉄のおかげで、一つの外国語を学ぶようにして、肉体の言葉を学んだ。それは私の second language であり、形成された教養であったが、(以下、略)

→先日、筋トレはアートであるというような文章を引用しましたが、ここでは筋肉はセカンドランゲージ(二ガイ)であり、教養であるとなっています。

ちょっと笑ってしまいそうな内容ですが、大真面目に書いているのが良いですね。

今ちょうど、英語を勉強している最中なので同じような感覚で肉体を学べたらいいなと思います。

 

私はもともと、精神の怠惰をあらわす太鼓腹や、精神の過度発達をあらわす肋のあらわれた薄い胸などの肉体的個性を、はなはだ醜いものと考えていたが、(中略)それは精神の恥部を肉体にさらけ出している無知厚顔な振舞というふうに思いなされた。

ガリガリな自分にとっては、グサッとくる内容です。まあ、三島由紀夫自身が肉体にコンプレックスを持っていたので、表現が強めに出てしまっているのだと思います。

 

言葉ははじめ、普遍的な、感情と意思の流通手段として、あたかも石の貨幣のように、一民族の間にゆきわたる。それが手垢に汚れぬうちは、みんなの共有物であり、従って又、それは共通の感情をしか表現することができない。しかし、次第に言葉の私有と、個別化と、それを使う人間のほんのわずかな恣意とがはじまると、そこに言語の芸術化がはじまるのである。

(中略)

言語芸術の栄光ほど異様なものはない。それは一見普遍化を目指しながら、実は、言葉の持つもっとも本源的な機能を、すなわちその普遍妥当性を、いかに精妙に裏切るか、というところにかかっている。文学における文体の勝利とは、そのようなものを意味しているのである。

 →最初の言葉の説明、直喩がしっくり来ますね。ただ何故「石」の貨幣なのでしょう。(中略)以降の後半の文はわかるようなわからないような。言葉とは人々に共通して理解されうる普遍的なものであるけれども、その使い方に個性が出ればそれが文体になるということだと思います。言語芸術について多少理解が深まった気がします。

 

 現実において、言葉は本来、具象的な世界の混沌を整理するためのロゴスの働きとして、抽象作用の武器を以て登場したのであったが、その抽象作用を逆用して、言葉のみを用いて、具象的な物の世界を現前せしめるという、いわば逆流する電流の如きものが、表現の本質なのであった。

→言葉というのは、目に見え、身体で感じる世界を概念として捉えて理解するのに必要なのものであり、その概念として捉える作用が抽象作用である。その抽象作用を用いて頭の中に、ある世界を作り出すのが表現であるということかと思います。短い文章ですが、言語芸術の表現における言葉の役割が理解できたと思います。

ということで、今日は以上です。