6/27の不安:坂口安吾『堕落論』新潮文庫
一週間お疲れ様でした。
本題に入る前に今週の反省すべき出来事を一つだけ書いておきます。
それは電話での意思疎通ができていなくて、手戻りが生じたり、上司の方に確認の電話が入ったりすることが立て続けにあったことです。
電話中に言いたいことがうまく伝わっていない気がしても、電話が苦手なので早く切りたい一心で言っていることをぼやかしたままにしてしましました。悪い癖だ。
電話後に不安になって、追加で意図を伝えるメールを送ったのですが、うまく伝わってませんでした。反省。
さて、本題ですが、新潮文庫の坂口安吾『堕落論』に収録されているいくつかの評論をざっと読んでみました。
以前から部屋の片隅に置いてあり、読んだ記憶はあったのですが、どんな話だっただろうかと思って再度手に取ったのでした。
読んだのは、「堕落論」、「続堕落論」、「特攻隊に捧ぐ」、「日本文化私観」です。
正直、わかったようなわからないような。。。って感じです。
ただ、他にもやることがある中で読むのにそれなりに時間を掛けたので、何かしらここに書いておこうと思います。
堕落論の内容としては、人間はもともと堕落するもので、戦争に負けたから堕ちていくのではないよ、堕ちるところまで堕ちきったときに本当の人間の姿が見えてくるよというような内容だったと思います。
戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人間を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
上記の引用部分はなんとなくわかるのですが(正直堕ちることが救うことになるのがわからない。そもそも救われる状態とはどういう状態を指しているのかわからない)、ところどころ見慣れない言葉も多いし、一つ一つの話の関連が自分にはどうもよくわかりませんでした。
書き出し以外はそこまで難しい言い回しでは無かったような気もしましたが、何回か読んでもあまり理解は深まりませんでした。政治や人間性について書いてあるから話が難しいんですかね?
また、時代背景や著者の詳細を私は知らないので、汲み取れない部分もあったかと思います。
ただ、戦時中・空襲に出くわした時の記述なんかを読むと、死を恐れながらも明日がないとも知れない状況に嬉々としている姿は三島由紀夫に通ずるものがあるのではないかと思いました。
それだからして、三島由紀夫が坂口安吾のことを敬愛していたことは、なんとなくですがわかったような気がします(勝手な解釈)。
私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に激しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
(中略)
やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持ちになっていたのである。私は死ぬかもしれぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。
続いて、「日本文化私観」ですが、こちらもあまり理解できなかったかもです。。。
簡単に内容を説明すると、以下の章立てで日本文化に関する著者の考えが述べられたものです。「私観」とあるだけあって、読む人にとっては結構新鮮に感じることが書いてあると思います。「必要ならば、法隆寺をとりこわして駐車場をつくるがいい。」なんてことも書かれています。
- 「日本的」ということ
- 俗悪について(人間には人間を)
- 家に就て
- 美に就て
私は特に「美に就て」で著者の「どういったものが美なのか」という議論の部分に共感を覚えました。
「必要」のみが要求する独自の形態が美の正体であるというのです。
これは美について考えるきっかけとなった刑務所や工場や軍艦等の物理的な存在にも当てはまるし、文学にも当てはまるということです。
美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。
また、文学だけでなくスポーツも、必要から生じる美の例として挙げられています。
百米(メートル)を疾走するオウエンス(アメリカの陸上選手)の美しさと二流選手の動きには、必要に応じた完全なる動きの美しさと、応じ切れないギコチなさの相違がある。
※カッコ内は私が追記しました。
これは陸上に限らず全てのスポーツに言えることだと思います。身体の使い方が上手でしなやかな方が美しく見えるというのはなんだか不思議なことですね。
またまた三島由紀夫ですが、彼も『太陽と鉄』の中で剣道に触れて以下のように書いています。
私は正しい美しい形態が、醜い不正確な形態を打ち負かすのを見た。形態の歪みには必ず隙があり、そこから放射される力の光線は乱れていた。
意図的に装飾したりするのではなくて、必要がために生まれたものが美しいとする考え方は、自分を魅了するものを的確に表現しているような感じがしました。
話は飛んで、私はトポロジー最適化や形状最適化みたいな技術に興味を抱いているのですが、こういった技術によって作られる形態(下図の画像のような橋)にドキドキするのは、決してそれが一般的な構造物とは異なって有機的な形状をしているからではなくて、その形状が制約条件の中で最適解であって、構造的に一番洗練された形だからなんですよね。
多少の安全余裕はあるにしてもすべての部材が力学的に「必要」とされている様は一番無駄のなく洗練された姿だと思います。
「日本文化私観」は少し難しいところもありましたが、最後の最後に「美」についての文章に触れることができて読んでよかったなあと思いました。
興味ある方、ぜひ読んでみて下さい。
今日は以上。