8/15の不安:他人にディスられることに関する一考察
「一考察」という仰々しいタイトルにしてしまいましたが、大したことは書きません。「一考察」と少しぶって書きたかっただけです。
さて、皆さんは他人にディスられることはよくありますか?
私はそこそこあります。そして、このディスられるということが大嫌いです。
このディスられるということに関して少し考えましたので、以下に書いておきます。
まず、このディスる、ディスられるというのは、明らかに若者言葉ですね。
いつ頃から使われ始めた言葉かわかりませんが、語源は不敬、侮辱する等を意味する「disrespect(ディスリスペクト)」から来ています。
尊敬するという意味の「respect(リスペクト)」に否定を意味する接頭語である「dis」が付いた言葉です。
disがつく言葉は他にもあると思いますが、「ディスリスペクトする」からディスの部分だけが残り、ディスる、ディスられるという言葉になったと思われます。
私はできることと、できないことの能力の凹凸がどちらかと言えば激しい方なので、普通の人であればできることが、人並みにできなかったりします。
ですので、このディスられるという状況にしばしば遭遇します。
何かが出来なかったら出来なかったでディスられますし、出来たら出来たで、「え?○○(私の名前)なのにそれできるの?」と言われることが少なくありません。
こうした発言は、もちろん私が色々なことを人並みにできないことを前提とした発言なので腹が立ちます(その発言の裏に愛があればまた別ですが)。
また、以前所属していた部署の上司はよく「○○君にはできないよ」と事あるごとに言う人でした。本人に悪気はなさそうでしたが。。。
(仕事の出来に対して否定するのはまだわかることですが、私自身を否定するような発言はやめてほしかったです)
なぜ、そのような発言をするのだろうか。。。
最近ずっとそんなことを考えていました。
しかしながら、人と関わっている以上、他人から自分を評価するような発言を受けるのは致し方ない部分があるのかなと思います。
他人が私に関して発言する場合は、それがポジティブな発言であるにせよ、ネガティブな発言であるにせよ、少なからず他人が私に関して興味を持っている証拠になります。
もし、他人をディスることと他人からディスられることを全く無くそうと思えば、他人に対して発言するのを控える他なく、それは完全に他人に対して無関心でいることになります。これは現実的にはありえません。
それに、完璧な人間なんて言わないわけですから、私のようにディスられることを極端に嫌ったり、自分は人からディスられるような人間ではないと思い上がるのは、少し傲慢なような気もします。
もちろん、人が傷つくような発言をするのはよくないですし、人を評価するような発言は控えるべきですが、人と関わっている以上、そういった状況に出くわすのは仕方がないと言えそうです。
どれだけの頻度で相手からディスられるかというのは、普段関わる人の数、その人の能力の程度、その人のキャラに寄るかと思いますが、一番大事なのはキャラだと思います。
自分がディスられるのが嫌ならば、ディスってきた相手を非難する前に、自分がそういったことが嫌いであることを意思表示しなければなりませんし、そういった発言を向けさせない雰囲気を作るのが大事かもしれません。
(雰囲気についてはやり過ぎるととっつきにくい印象を与えるかもしれません)
言葉で伝えるか、それでも伝わらないのであれば、怒るという手段をとるべきです。
それができないのなら、現状の私のように相手からディスられるという状況に甘んじなければなりません。
ディスられたからといってくよくよ悩む前に他にやるべきことがあるということです。
また、怒りが何かしらの原動力になることもあります。いつかディスった奴らを見返してやる!そんな感じです。
現状私はそれで生活が出来ているのかもしれません。ディスられるという状況はなるべく避けた方がいいですが、そうした状況に出くわしたとしても、自分は今原動力となるエネルギーを得たぞとポジティブに捉えるのもありかもしれません。
モヤモヤしたら割り切ること、そしてそれを原動力として何かに昇華させることが大事だと考えたのでした。
ちなみに、林修は「見返してやる!」という状況をそもそも作らないことが肝心だと本の中で述べていました。確かにそうだけど、なかなか厳しいことを言うと私は思いました。皆さんはどのように考えますか?
今日は以上です。
※追記
あと「人生経験薄そう」とかも腹立つ。