アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

6/16の不安:三島由紀夫『太陽と鉄』再読中。。。次はトーマス・マンの魔の山を登る!

一日お疲れ様でした。

今日は特に問題もなく過ごせました。

気に掛かったことは、強いて言えば、上司が私の作った資料の確認中に大きく溜め息をついたことです。

「資料あとで見とくから机に置いといて」と言われ、そっと置いておいたのですが、その数分後に「はあ〜」とクソデカ溜め息が聞こえてきました。

まさかとは思ったのですが、そのまさかでした。私の資料見てました。ぐぬぬ

思ったよりも大きく直されて返ってきました。。。

それで、話は変わって、、、今は会社から帰ってきているのですが、帰ってきてからは三島由紀夫『太陽と鉄』再読しています。

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

 『太陽と鉄』は「どうしても小説という客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積」を表白するために「告白と批評との中間形態」をとった三島由紀夫の評論になります。

これを読めば「自分のやることは全部わかる」と三島が豪語しています。

はじめ読んだときはさっぱり内容が頭に入ってこなかったのですが、4回、5回と繰り返し読むうちに何となくわかってきました。

まだ哲学の用語や、古い文献の内容を念頭に置いたような文章については、バックボーンを知らないので理解できません。

ただ、三島由紀夫の、青年時代に置いてきた想いを回収しようとするその切なさ、熱い思いが伝わってくるようで時々胸が締め付けられるような気がします。

すべてが回収可能だという理論が私の裡に生まれていた。時と共に刻々と成長し、又、刻々と衰えるところの、「時」に閉じ込められた囚人である筈の肉体でさえ、回収可能であることが証明されたのだから、「時」そのものが回収可能だという考えが生じてもふしぎはない。

三島由紀夫は輪廻転生がテーマとなった長編小説を最後に書いて自殺してしまいます。時間や生まれ変わりについて特別な考えを持っていたのかもしれませんね。

 

 何という皮肉であろう。そもそもそのような、明日というもののない、大破局の熱い牛乳の皮がなみなみと湛えられた茶碗の縁を覆うていたあの時代には、私はその牛乳を呑み干す資格を与えられていず、その後の永い練磨によって、私が完全な資格を取得して還って来たときには、すでに牛乳は誰かに呑み干されたあとであり、冷えた茶碗は底をあわらし、私はすでに四十歳を超えていたのだった。

破局の熱い牛乳を飲むとは、「悲劇的世界」に住むことによる「幸福」に浴することを表しているのだと思います。

「完全に未来を欠いた世界」に「住む資格を完全に取得したという喜び」が「私の幸福の根拠だった」と書かれていますので、十分な肉体を持った上で、特攻隊のように英雄的な死を遂げることが決まっている状態になることを望んでいたんですね。

※三島は胃弱体質であったため、身体検査で落とされて徴兵されませんでした。

 

私の死への浪漫的衝動が実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、つまり肉体的条件が不備のためだったと信じていた。浪漫主義的な悲壮な死のためには、強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。

 悲壮的な死のためには彫刻的な肉体が必要であることが記されています。

 

しかも集団に融け込むだけの肉体的な能力に欠け、そのおかげでいつも集団から拒否されるように感じていた私の、自分を何とか正当化しようという欲求が、言葉の習練を積ませたのであるから、そのような言葉が集団の意味するものを、たえず忌避しようとしたのは当然である。

 三島ほどではないかもしれませんが、これはよくわかります。私も幼少期から身体が弱く運動神経もありませんでしたので、皆と球技等で遊ぶことはできませんでした。なんとなくあのただ呆然とスポーツを楽しんでいるクラスの人たちを眺めている時の孤独な感じを思い出させる文章です。

 

力の行使、その疲労、その汗、その涙、その血が、神輿担ぎの等しく仰ぐ、動揺常なき神聖な青空を私の目に見せ、「私は皆と同じだ」という栄光の源をなすことに気づいたとき、すでに私は、言葉があのように私を押し込めていた個性の閾を踏み越えて、集団の意味に目ざめる日のことを、はるかに予見していたのかもしれない。

 孤独だったんですね。「私は皆と同じ」というただそれだけのことに喜びを感じる40代の三島を想像したらかわいらしく思えてくるのは、それだけ、単純だけれども叶え難い思いをずっと幼い頃から引きずってきたからなのだと思います。

 

私もなんだか消化しきれない思いを抱えています。大人になった今からでもあの時の気持ちを回収できる方法のヒントがこの本には書かれているのではないかと思って繰り返し読んでいる次第です。

文庫本100ページほどですが、中身が濃いです。

生と死、精神と肉体、言葉と筋肉、文と武、、、あらゆることが二元論的に語られています。

どうやらこの二元論的な考えはドイツの小説家トーマス・マンに影響を受けているみたいですね。(以下、孫引きになって恐縮です。髙山秀三「三島由紀夫教養小説―『鏡子の家』VS『魔の山』」)

マンには、ぼくはやはり、影響を受けていますね。つまり、マンによってはじめて、正当な二元論にぶつかったのだと思う。日本人というのは、二元論というのは嫌いですから。みんな、あいだをソフト・フォーカスでつなげてしまいますね。だから、晴れと雨とのはっきりした境界がなくて、ずうっと雲と霧でつながっている。そういうものとはまるで違う、西欧的二元論の影響をはじめて受けたのは、ぼくは、マンを通じてだと思うのです。芸術と生活、その他、いろいろな形の二元論ですね。それが、小説の世界の、ドラマの要素を強める、大きな影響だと思いますが。(「三島文学の背景」(三島由紀夫全集40巻635頁) )

 

より「太陽と鉄」を、三島由紀夫を理解するにはトーマス・マンを読む必要があるわけです。学生時代にここまでは理解していましたが、マンは読んでませんでした。はやり避けては通れなさそうです。

社会人になってから、トニオ・クレーゲルは読んだはずなんですが、全く記憶に残っていません。

というわけで、「トニオ・クレーゲル」→「ベニスに死す」→「魔の山の順で読んでいく予定です。

ちなみにトニオ・クレーゲルは北杜夫ペンネームの由来になってますよ。

魔の山(上)(新潮文庫)

魔の山(上)(新潮文庫)

 

 

今日は以上!