アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

10/9の不安:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』新潮文庫

最近寒くなってきましたね。

今年の夏はGを部屋で見かけることなく夏を終えることができました。

コロナで夏らしいイベントはありませんでしたが、次来たる冬を充実させたいと思っております。

さて、久しぶりの更新となりましたが、首記の本読みましたので何かしら書いておこうかと思います。

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)
 

 本当は最近すごくつらいことがあったので、そのことについても書きたいのですが、時間が掛かるので本のことだけで済ませようと思います。

(何があったかというと、前の部署の上司が自分のことを裏で愚痴っていたということが判明したり、後輩に舐められた言動をとられたりで、ほんと自分て仕事できないんだなって落ち込んだっていうことです。まだ生きづらさは消えていない。。。)

 

本題ですが、なぜ『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』を手に取ったかと言うと以前も少し記事に書きましたが、三島由紀夫に影響を与えたという二元論的な考え方がどのように小説に表れているのかを確認しようと思ったからです。

fecunditatis.hatenablog.com

 結果からいうと難しくてあまりそこらへんはよくわかりませんでした。

確かに文中に芸術家である主人公が、自分と一般的な市民とを比較したような発言は出てきましたが、このブログで分析できるほどには意図は汲み取れませんでした。

想像していたより難解。

三島が金閣寺を書く際にマンの文体を意識したと言っているくらいなので、難解なのはうなずける話なのかもしれません。

魔の山』まで読んだらもう少しわかるかもしれない。。。

それで、この本を読んで思ったのは、何となく、素人目線ですが、三島由紀夫に影響を与えた理由が何となくわかるかもしれないということでした。

トニオ・クレーゲル、ヴェニスに死すに出てくる主人公たちはトーマス・マン本人のキャラクターが反映されていると思いますが、その主人公の設定で三島由紀夫に共通していると思われる箇所が何点かあったように思います。

それをまたしても無粋ですが、以下に箇条書きしておこうと思います。

三島由紀夫と共通していると感じた主人公の特徴>

  • 男色傾向
  • 海が好き
  • 芸術家(文士)
  • 官僚の家系
  • 運動があまり得意でない

それぞれ一つずつ見ていきます。

男色傾向

『トニオ・クレーゲル』の主人公トニオはブロンドの女の子インゲ・ボルクホルムのことが好きなのですが、一方でクラスメイトのイケイケ男子ハンス・ハンゼンにも心惹かれています。単に優秀なクラスメイトに憧れるというわけではなくて、ほんとになんか「すき」って感じなんですよね。

この時トニオは14歳くらいでしたので、これは、三島由紀夫の『煙草』に描かれていた「性のゆらぎ」のことかと思ったのですが、そうではありませんでした。

ヴェニスに死す」を読むとこれが「性のゆらぎ」ではなくて男色であることがわかります。

ヴェニスに死すに出てくる主人公アシェンバハは老齢なのですが、普通に美男子が好きでした。

ヴェニスに死すでは、アシェンバハがホテルで一緒になったポーランド人の美男子タドゥツィオが美の象徴として描かれています。後半はやたらとこのタドゥツィオの描写が長いんです。どんだけ好きなんや~という感じでした。きっと三島も共感を覚えたことだと思います。

十五から十七ぐらいまでの少女が三人、十四歳ぐらいかと思われる少年がひとり、この少年は髪を長くのばしていた。この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。蒼白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式的の完璧にもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと思ったほどである。

ギリシャの彫刻はよく三島が筋肉を語るときに出てきますね。そういば、これより前のページに聖セバスチャンの話も出てきました。

むしろそれは積極的な一業績、積極的な一勝利であって、セバスティアンの姿こそ、芸術の一般とはいわないが、すくなくともたしかに今問題になっている芸術ジャンルの最も美しい象徴なのである。

 

海が好き

トニオでもヴェニスでも主人公はやたらと海辺にいるような気がします。

実際、ヴェニスに死すでは主人公アシェンバハは海が好きであることが書かれています。

 やはり滞在することにしよう、とアシェンバハは思った。ほかへ行ったところで、やはり大したことはあるまい。こう考えて彼は両手を膝の上に組んで目を遥か沖合にさまよわせた。はてしのない水平線の単調な靄(もや)の中に視線はずれ動き没した。彼は深刻な訳合(わけあい)から海というものを愛していた。目まぐるしい現象の、扱いにくい多彩な形態をのがれて、単純で巨大な海の懐ろに身を隠したいと望む芸術家の、辛い仕事を続ける芸術家の、休息への欲求から彼は海を愛していた。秩序を持たぬ、節度のない、永遠のもの、虚無への、まさに自己の使命に悖る(もとる)禁制の、またそれ故にこそ誘惑的な愛着から彼は海を愛していた。完璧なものに倚って(よって)静かにしていたいということは、優秀なものを作り出そうと心を砕く人間のあこがれなのだが、この虚無というものはつまり完璧なものの一形式ではあるまいか。

※文中カッコ内は私が追記しました。

うーん、文章の意味はよくわかりませんが、何度か、「彼は海を愛していた」と書かれていますね。三島由紀夫もカナヅチでしたが、海が好きだったように記憶しています。

また、トニオの母親が南国生まれなんですよね。南国というと「花ざかりの森」とか「豊饒の海」を少し想像します。

 

芸術家(文士)

文庫本に収録の解説によるとトニオ・クレーゲルもヴェニスに死すも「芸術家(文士)を主人公にし、芸術家・文士の本質に関する問題を取扱っている」とのことです。

確かに主人公はどちらも文士なんですよね。これも三島に共感を覚えさせたところだと思います。

以下、トニオ・クレーゲルから。

「『天職』は願い下げです、リザヴェータ・イヴァーノヴナさん。いったいこの文学というものは天職じゃない、呪いですよ。――そうですとも、いつごろそれが感じられ始めるかと言いますとね、夙く、おそろしく夙くからなんです。われわれがまだむろん神とも人とも睦み和んでいてしかるべき時からなんです。あなたは自分に刻印が打たれ、ほかの人間たち、平凡で尋常な人間たちと不思議な対立関係にあるのを感じ始める。風刺と不信と反抗と認識と感情の深淵が、あなたをほかの人たちから切り離して、次第に口を大きく開けていくのです。あなたは孤独だ、そうしていざとなってしまうと、もう了解し合う道んなんかありはしない。なんという運命でしょう。

芸術家って大変なんだなって思わされますね。。。好きでなるんじゃなくて、生まれ持った性質がそうさせるんですね。

 

官僚の家系

トニオもアシェンバハもそれなりの家系の生まれとして描かれています。実際トーマス・マン自身は「裕福な旧家の次男として生まれ」たと解説に書かれています。

三島由紀夫も祖父、父親ともに官僚で本人も財務省に入省した後に小説家になっていますね。

つまりグスタフ・アシェンバハは、シュレージェン地方の郡役所所在地Lの町に、身分の高い司法官の息子として生まれた。祖先は将校、裁判官、行政官など、つまり王や国家に仕えて、緊張した、律儀で切りつめた生涯を送った人たちであった。

 

運動があまり得意でない。

トニオ・クレーゲルに出てくる主人公トニオはどんくさいんですよね。

すごく共感を呼びそうで衝撃的だったシーンがあるんですけれど、そのシーンはトニオのどんくささを物語るに十分なシーンだと思います。

自分も読んでいてすごくわかるような、昔こんなことあったかもなと思うようシーンでした。

それは、トニオが舞踏の練習の時間に間違ったダンスをしてしまってそれをトニオが恋しているブロンドのインゲ・ボルクホルム(金髪のインゲ)に笑われてしまうという事件なんですね。

「第二組、前へ。en avant!」トニオ・クレーゲルとその相手の番だった。「お辞儀をして」でトニオ・クレーゲルは頭を下げる。「ご婦人は旋舞を」でトニオ・クレーゲルはうなだれて眉を曇らせたまま自分の片手を四人の婦人たちの手の上に、インゲ・ホルムの手の上において、つい旋舞を踊ってしまった。

 そこらじゅうから忍び笑いや高笑いが起った。クナーク先生は、様式化された驚愕を表現する、あるバレーのポーズをとった。「さあ、大事だ」と彼は叫んだ。

(中略)

 彼女もまたほかの人たちと同じように自分を嘲り笑ったのであろうか。これは自分のためにも彼女のためにも否定したかったが、事実、彼女は笑ったのである。

インゲ笑うんかーい。

めちゃくちゃ悲しいですね。こういうことって大人になったらあまり記憶には残ってないかもしれないですけど、こういうことの積み重ねがどんくさい人の自信のなさに繋がっているんじゃないかなー自分は考えています。

あったかもな。こういうこと。これは共感できる人多いんじゃないでしょうか。

 

というわけで、トーマス・マンの代表作『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』でした。

ヴェニスに死すってもっとおしゃれな感じの話だと思ったんですけど、大半はタドゥツィオに恋している話で肩透しをくらった気分です。

確かにバカンスの雰囲気とか水平線の向こうから太陽が昇るときの描写とかは神話が織り交ぜられていたりして壮大で綺麗ですごく惹かれたのですが、思っていたものとは違いました。

今後はこの流れで魔の山を読むか他の外国作品に触れてみたいなと思っています。

とりあえず、ミヒャエルエンデの『モモ』とかゲーテの『若きウェルテルの悩み』とかヘッセの『車輪の下』で代表的ドイツ文学を味わい、長編小説『魔の山』に取り掛かる。

長編小説繋がりでスタンダールの『赤と黒』、次にフランス文学繋がりで三島が傾倒したとされるラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』、『肉体の悪魔』、〆に斉藤孝氏をして「これを読まずして人間を語るべからず」と言わしめた長編小説ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読む。

最後に日本へ戻ってきて三島がニヒリズムの研究と言った『鏡子の家』を再読し、超大作『豊饒の海』四部作を読む。。。。。

一体どれだけ時間が掛かるだろうか。。。。ほんとスマホいじっている場合ではない。

皆さんも読書の秋満喫してはいかがでしょうか。 fecunditatis.hatenablog.com

 今日は以上!