6/24の不安:内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波文庫
今日もお疲れ様でした。
昨日よく眠れず身体がだるかったのですが、なんとか頑張れました。
それにかねてからどうしようかと気に掛けていた案件が進捗を見せたので、ほっとしました。
最近はなぜか過去に関わった業務の問い合わせが多く、現在携わっている業務に十分時間を割くことが出来ていません。
それに来週は長期で出張に行くことになってしまいました。
また車に乗るので、次こそ事故に気をつけねばなりません。
そういえば、車の運転で思い出したのですが、前回、上司を車に乗せたときは何も言われなかったのですが、裏で上司が「○○(私)の運転、ちょっと怖い」と言っていたことが判明しました。
また別の上司と車の話になった時に、自分の運転中の癖を指摘され、「もっと余裕をもって運転しなきゃ!」と言われたのでした。
この方を車に乗せたことは無いのになんで自分の運転中の様子を知っているのだろうと思ったのですが、そういうことでした。
真面目に指摘されたわけではなくて、穏やかな雰囲気での会話だったのですが、ちょっとショックで顔が引きつってしまいました。
まあ、本人の前で運転怖いと言わないのは上司の優しさですよね。
これはしょうがない。
逆に目の前で「怖い」と言われたらそれこそプレッシャーになって、余計ぎこちなくなっちゃうし。
自分が理想とする一人前の大人になるには、まだまだ先が長いなーと思ったのでした。
さて、本題ですが、以前以下の記事の最後にV・Eフランクル『夜と霧』を紹介して、「生きる意味を問うのではなくて、人生が自らに投げかける問いにどう答えるかが大事」なんだよ、みたいなことを書きました。
しかしながら、そうは言っても「何のために生きてるんだろ?」とふと考えてしまうことは少なくないかと思います(私みたいな人は)。
それで、生きる意味についてヒントを与えてくれそうな本を読んでみようということでタイトルの本を手に取りました。
読んだのは、『後世への最大遺物』のみで、大学時代に一度読んでいますので、再読になります。
この本は明治27年(1894年)の夏期学校における内村鑑三の公演内容を収録したものです。
表紙の紹介文にもある通り、内村鑑三が人生で後世に残しうるものは何だろうかということについて語っています。
《我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か。……何人にも遺し得る最大遺物――それは勇ましい高尚なる生涯である》。
「金か、事業か、思想か、、、、いや、そうではなく勇ましい高尚なる生涯である」という文脈ではなくて、「金もそうだし、事業もそうだし、思想もそう、、、、それでも皆が皆それらを遺す才能があるとは限らないから、最大遺物と言えば勇ましい高尚なる生涯である。」という文脈になっているかと思います。
「千載青史に列するを得ん。(長い間にわたり、歴史や記録に残る人物となること)」との考えを欲するようになったところ、宣教師に叱られたとのことですが、内村鑑三自身は、本当の意味するところはそんなに悪い考えではないとし、死ぬまでに少しでもこの世をよりよくしていこうと聴講者に話しかけています。
すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。
それで、私が注目したのは後世に遺す事業として「土木的な事業」が挙げられているところです。これは私が学生時代にこの本を読むきっかけとなった内容でもあります。
それで事業をなすということは、美しいことであるはもちろんです。ドウいう事業が一番誰にもわかるかというと土木的の事業です。私は土木技術者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでござります。一つの土木事業を遺すことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。
建設業界に従事する者にとって、やりがいに直結しそうな文章です。
私はまだ若手で実務経験も乏しいのですが、今後「何かを遺すことができたぞ」と実感できる日が来ればもう少し生きる意味を見出せるのではないかと思っています。
それまでとりあえず日々の仕事に耐えてみます。
ところで、内村鑑三がこうしたことを述べたのには、二人の人物の影響があると考えられます。
そのうちの一人が、内村鑑三が札幌農学校(現在の北海道大学)に在籍していた頃に教頭を務めていたウィリアム・ホイーラーです。
彼は、少年よ大志を抱けで有名なクラーク博士の愛弟子であり土木技術者でした。
そしてもう一人が、札幌農学校で内村鑑三と同期で、且つこのホイーラーに感化され土木技術者となり、のちに東京帝国大学の教授となった廣井勇でした。
廣井勇のWikipediaには、内村鑑三との関係を示す文章があります。
勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る」と宣言し、内村らに伝道を託したという。
廣井勇は東京帝国大学教授となったのち、東京帝国大学から数々の有名な土木技術者を輩出することになります。
建設業界の方なら、この方々の名前にピンとくるのではないでしょうか。
内村鑑三の周りには多くの土木関係者がいたわけですね(といっても二人だけど)。
こうした歴史上の人物の繋がりを考えると何かわくわくするものを感じます。
皆さんもぜひ一度読んでみて下さい!
今日は以上。