アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ

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アスペルガーグレーゾーン(仮)の社会人が日々の不安や気になる本について書くブログです。

6/8の不安:仕事できなくて悩む。

今日は本来土日に終わらせるべきことが終わらなかったので7時半に出社し、そこから昼飯もほどほどにほぼノンストップで仕事をし続けました。頑張った。

途中頭痛が襲ってきましたが、バファリンでなんとかしました。

毎日これだけ働いたら、お金もらってもいい気がする。

ただ、今日は夕方くらいからメンタルが不調になりました。

理由はいくつかあるんですが、一つは上司の指示が細かいことです。

指示が細かいことはいいんです。そもそも自分で「工程管理ができないので、ちゃんと見ておいてもらえますか?」って頼んだので!

でも、なんだか後輩よりもやたら指示が多い気がするし、細かいしで、自分てそんなに指示待ち人間に見えるのか??って自己否定が始まってしまいました。

それに夕方になって部長から「この後も残業するんだと思うけど、次から20時超えるときは課長にメールするようにするか」と言われました。

これも裏を返せば早く帰れるってことなんですが、自分のフィルターを通すと、「だらだら仕事しすぎ」という風に聞こえるので、なんでこんなに仕事遅いんだ~ってそれもまた自己否定をしてしまうきっかけとなったのでした。

あともう二つ、、、

明日、本当は遠方に出張の予定だったのですが、そんなに重要な役割もなかったので、「行けたら行きます!」というような返事をしていたのでした。

資料作成の進み具合で行くか行かないか決めようと思っていたのですが、なんやかんやで前日の今日まで行くか行かないか決められず、直前になって「行けません!」と返事をしたのでした。

最初から行けませんって伝えておけばよかった。それにずっと頭の隅に出張の件あったのに誰にも連絡せず、上司から聞かれてから答えるという。。。

もっと自分から伝えに行かないと。。。

それと今日反省したのは、いつも具体的な数字を念頭に置かず話を進めてしまうことです。

やりがちなのが、上司に「○○の件、こうなるそうです~」と報告して、「いつまでに?」とか「どれくらい変わるの??」と聞かれてしまうということです。

毎回、「それについては、聞き忘れてました。。。」と答えている感じがします。成長しない。

こうやって反省してもまたやらかす気がする。

もういいや、とりあえず筋トレして気分転換しよ。

以上!

6/7の不安:三島由紀夫『私の遍歴時代』から太宰治に関する記述紹介します。

ここ数日ブログは書いておりませんでしたが(昨日今日とで出勤です。。)、筋トレは継続しています。

気のせいかもしれませんが、精神的には安定しており、やはり本当に「筋トレは最高のソリューション」なのかもしれないと思うのでした。

さて、本題ですが、特に記事に書きたいこともないので、タイトルにある三島由紀夫のエッセイ『私の遍歴時代』から太宰治に関する記載を紹介しようかと思います。

『私の遍歴時代』はちくま文庫から出ているものもありますし、中公文庫の『太陽と鉄』に収められているものもあります(私のはこっち)。

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

三島由紀夫太宰治は双璧をなす作家だと思います。

三島由紀夫は東京四谷生まれの都会育ち、東大卒だけど、運動音痴で女性にはモテない。『仮面の告白』なる半自叙伝的小説を書き、中年(45歳)で自殺。一方の太宰治は青森生まれの田舎育ち、東大卒で運動も出来て女性にモテモテ。。。かの有名な『人間失格』というこちらも半自叙伝的小説を書き、中年(38歳)で自殺。

仮面の告白』と『人間失格』とでは、文体も明らかに互いに真逆を行っているような気がします。。。仮面の告白はかっちりタイプで人間失格はゆるゆるタイプです。

仮面の告白の後に人間失格を読むと文体の落差で耳がキーンとなります。

あとにも書きますが、三島と太宰は出生等、相反するところもあれば、結構似ているところもあったんですね。そのせいもあってか、同族嫌悪で三島は太宰のことが嫌いだったみたいです。

 それでは、早速気になる箇所を引用します。

 私は以前に、古本屋で「虚構の彷徨」を求め、その三部作や「ダス・ゲマイネ」などを読んでいたが、太宰氏のものを読みはじめるには、私にとって最悪の選択であったかもしれない。それらの自己戯画化は、生来私のもっともきらいなものであったし、作品の裏にちらつく文壇意識や笈(きゅう)を負って上京した少年の田舎くさい野心のごときものは、私にとって最もやりきれないものであった。

 もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは、愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。

※()内は私が追記しました。笈は「修験者や行脚僧が仏具・衣類などを入れて背に負う、脚・開き戸のついた箱」とのことです(Weblio辞書)。

愛憎の法則とは先ほどの同族嫌悪のことを指すのだと思います。自分が自分で嫌いだと思って人に見せないようにしていることを他人の姿で目の当たりにすると不愉快になるのは分かります。

それで、三島は太宰に会ったときに「あなたの文学がきらいです」と面と向かって言うんですね。場所は『私の遍歴時代』によると「うなぎ屋のようなところの二階らしく」、「十二畳ほどの座敷」だったということです。その時の様子がこちら。

 しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。

「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」

ここは有名なシーンですね。

これを言わないと自分の文学上の生き方がどうのこうのと三島は書いてありますが、実際には、闇市で手に入れたお酒を太宰治が皆に振舞っていた宴会に連れられた三島が、自分だけお酒が飲めずに盛り上がりに付いていけず、その場から浮いてしまった挙句に発した言葉らしいです。

それで、その発言のせいで空気が悪くなってしまったので、太宰治が「そんなことを言ったって好きなんだよな」と言って大人の対応を見せたというのが本当らしいんですよね。

この情報どこで自分が得たか覚えていないです。でもこっちの方が三島の性格を考えるとあり得そうだなと思っています。

もう一度、その「本当のところ」を記載した文献にあたりたいのですが、どなたかご存知であれば教えて下さい。

新潮文庫の「小説家の休暇」でも太宰について触れられていたような。。。

あの有名な二人に実は接点があったと思うとドキドキが止まりませんね。

ということで以上です。

6/2の不安:億劫なものほど先延ばしにしてしまう件(解決策は筋トレ)。

今日も無事に終了しました。

出張先でも車を運転させてもらえたし、事故なく終えることができました。

よかった。よかった。

運転苦手なんです。↓↓

fecunditatis.hatenablog.com

 

それと最近ずっと気に掛かっていた仕事の件が少し進捗を見せたので、安心しました。

ただこの件に関して上司とやりとりする際は緊張しました。そのおかげでずっと胃が痛かったです。

本当は4月のうちに手を付けておくべきことだったのですが、手を付けるのが億劫過ぎて今更動き出したのでした。

億劫だと思うほど先延ばしにして心の重荷を増やしてしまうんですよね。

億劫過ぎると、その仕事のことを考えたり、実際に手を付けたりした際に胃が痛くなって、耐えられません。

その痛みと不安を乗り越えるのに必要なのは、毎回焦りなんですよね。

ほんとにお尻に火がつかないと乗り越えられないんです。

なんか不安がパーっと消えるクスリみたいなのないかなーとか、もっと不安な気持ちを紙に書き出して少しでも不安の正体を明らかにするのが大事なのかなーとか考えました。

「○○終わったら、自分へのご褒美に△△を買う」等の手は自分には効きません。

そしてなんですが、夜に三島由紀夫『太陽と鉄』を読んで、筋トレが最高のソリューションである通り、やはり先延ばしに対する解決策は胃痛に耐えられる肉体を手に入れることだと思いつきました。

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

 

 『太陽と鉄』は三島由紀夫が筋肉を鍛え始めた契機や死に対するフェティシズム的な考え方が記されています。(難解ですが、その分読み応えがあります。)

そういえば以前も少し記事に書きました。

fecunditatis.hatenablog.com

 胃痛に耐えられないなら、耐えられる肉体を手にするしかない!そう考えました。

ムキムキになる→胃痛に耐えられる→先延ばししない。。。という寸法です。

今と違う肉体を手に入れられれば、見えてくる景色も考え方も変わってくるでしょう。

自分の気の弱さは、この虚弱な肉体に起因しているはずだ。。。

最近は英語に触れることと、ブログの記事を書くことを習慣にできていると思うので、筋トレも同じように生活の中に組み込んでいきたいなと考えています。

かなり長期戦になることは目に見えていますが、30歳になるころには何某かの成果は出ているはずです(その時までに継続できていればですが)。

まだ半分も読んでいませんが、最後に『太陽と鉄』の気になった箇所を引用しておきます。

 ……ずっとあとになって、私は他ならぬ太陽と鉄のおかげで、一つの外国語を学ぶようにして、肉体の言葉を学んだ。それは私の second language であり、形成された教養であったが、(以下、略)

→先日、筋トレはアートであるというような文章を引用しましたが、ここでは筋肉はセカンドランゲージ(二ガイ)であり、教養であるとなっています。

ちょっと笑ってしまいそうな内容ですが、大真面目に書いているのが良いですね。

今ちょうど、英語を勉強している最中なので同じような感覚で肉体を学べたらいいなと思います。

 

私はもともと、精神の怠惰をあらわす太鼓腹や、精神の過度発達をあらわす肋のあらわれた薄い胸などの肉体的個性を、はなはだ醜いものと考えていたが、(中略)それは精神の恥部を肉体にさらけ出している無知厚顔な振舞というふうに思いなされた。

ガリガリな自分にとっては、グサッとくる内容です。まあ、三島由紀夫自身が肉体にコンプレックスを持っていたので、表現が強めに出てしまっているのだと思います。

 

言葉ははじめ、普遍的な、感情と意思の流通手段として、あたかも石の貨幣のように、一民族の間にゆきわたる。それが手垢に汚れぬうちは、みんなの共有物であり、従って又、それは共通の感情をしか表現することができない。しかし、次第に言葉の私有と、個別化と、それを使う人間のほんのわずかな恣意とがはじまると、そこに言語の芸術化がはじまるのである。

(中略)

言語芸術の栄光ほど異様なものはない。それは一見普遍化を目指しながら、実は、言葉の持つもっとも本源的な機能を、すなわちその普遍妥当性を、いかに精妙に裏切るか、というところにかかっている。文学における文体の勝利とは、そのようなものを意味しているのである。

 →最初の言葉の説明、直喩がしっくり来ますね。ただ何故「石」の貨幣なのでしょう。(中略)以降の後半の文はわかるようなわからないような。言葉とは人々に共通して理解されうる普遍的なものであるけれども、その使い方に個性が出ればそれが文体になるということだと思います。言語芸術について多少理解が深まった気がします。

 

 現実において、言葉は本来、具象的な世界の混沌を整理するためのロゴスの働きとして、抽象作用の武器を以て登場したのであったが、その抽象作用を逆用して、言葉のみを用いて、具象的な物の世界を現前せしめるという、いわば逆流する電流の如きものが、表現の本質なのであった。

→言葉というのは、目に見え、身体で感じる世界を概念として捉えて理解するのに必要なのものであり、その概念として捉える作用が抽象作用である。その抽象作用を用いて頭の中に、ある世界を作り出すのが表現であるということかと思います。短い文章ですが、言語芸術の表現における言葉の役割が理解できたと思います。

ということで、今日は以上です。

6/1の不安:予約時に名前を聞かれたときにフルネームで答えるべきか、名字だけで答えるべきかわからない。

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今日は出張でした。出張時は普段と状況が異なるので、緊張しました。それに社外の人と話す機会があったのですが、雑談がうまくいかず凹みました。

それ以降、なんだか頭が熱っぽくて、挙動がぎこちなくなってしまいました。エレベーターに乗るとき、降りるときそれぞれ身体をぶつけました。

未だに自分の身体の境界線がどこなのかわかりません。

さて、本題ですが、何かの予約するときに名前を聞かれると思うんですけど、フルで答えるべきか、名字だけで答えるべきか迷うときないですか??

私はよく名前を聞かれて動揺した挙句、フルで答えることが多いのですが、その度に名字だけ復唱されて恥ずかしい思いをします。

今日はホテルにチェックインする際に名前を聞かれて名字だけ答えたのですが、下の名前も確認されてしまいました。

まあ、ホテルはそうか。。。。

どういった場合にフルが適当で、どういった場合は名字だけでいいのかがわかりません。そんなに考えることではないかもしれませんが。。。

 

フルか名字かというわけでもないのですが、返答を間違えて恥をかいたこともあります。

私は20歳になった頃、電話で女性を指名した上で所謂風俗のサービスを予約したことがありました。(運んでもらう方ではなくて、自分で行くほうのやつです。)

風俗なんて汚らわしいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは致し方のないことです。岡本太郎がエッセイの中で「女性を知らなければ、自由になることはできない」と言っていたからです。

それで、お店に到着後、待合室に案内されました。待合室には私の他に2名ほど別のお客さんがいました。

ボーイの方が出てきて、「ご予約のお名前は・・・?」と聞くので、元気よく自分のフルネームを答えたのですが、「いや、、、ご予約された女の子の名前を。。。」とのことでした。

この時はそもそも自分の名前は聞かれていないパターンなのでした。

こんなことを繰り返しているので、いつ何時恥をかかされるか分からないわけで、受付の人と話すときは緊張します。

特に受付の方が女性とかだったりすると目を合わせられません。それはただのDTの話か。

ということで今日は以上です。

5/31の不安:自信の付け方(何かに秀でることが大事?)

自信の付け方(何かに秀でることが大事?)

 

昨日、私が対人恐怖的となった原因を列挙しましたが、単に原因を分析しただけではなんの解決にもなりませんよね。

なので、どのように対人恐怖を解決するか、ということでタイトルにある自信の付け方について書こうと思います。

自信を付けたら対人恐怖が治るのかは謎ですが、自信をもって生きていきたいなと思うので、自信が付くに超したことはありません。

 

ちなみに以下に示す自信の付け方は、昨日の記事を何ら参考にはしていません。

昨日の記事↓↓

fecunditatis.hatenablog.com

 また、これから書くことは実体験を基にしたものではないため、説得力に欠けるかもしれません。ご了承ください。私の当面の方針です。

 

ということで、先に結論を言いますが、当分の方針としている自信の付け方というのは、「何かに秀でる」ことです。

仕事でも趣味でもなんでもいいので何かを極めることが大事だと以下の動画の意見に賛同しました。

www.youtube.com

 TECH CAMPのマコナリ社長ですね。

身近にいたらストイックすぎてメンタルやられそうですが、動画で観る分には勉強になります。時々お茶目なところも見せてくれるので人間臭くてよいです。

動画の中では「今やっていることを極端にやってみること」がよいと説明されています。(その他の方法としては、人格否定する人から全力で逃げる、身近な人に感謝の贈り物をする、が挙げられています。)

これは私も賛成です。恐らく何かに突き抜けることができるようになる、または突き抜けた経験を持つことができれば、今の自分よりは多少変わることができるのではないかと思うからです。

自分の場合で言えば、専門的な資格を取得するとか、ある専門分野をめっちゃ勉強するとか、英語が喋れるようになるとか、ブログの記事数をめっちゃ増やす、、、とかです。

でも、実際に何かに突き抜けようと思えば、仕事以外の時間をそれに費やさなければならないので、何をやって、何をやらないかも決めなければいけないと思います。私はまだこれが出来ていません。

勉強するにしても興味のある分野がどんどん発散していってしまうので、いつまでたっても知識が水平方向に広がるばかりで、鉛直方向に深まることがありません。これはこれで教養が付いたということでいいのかもしれませんが。。。

(本を読む場合でも、ある1冊に出会うためには100冊の本を読まなければなりませんが、1冊の本を100回読むことも大事ですよね。)

勉強する際にどこまで勉強するのかという「有限化」の重要性については、下記書籍『勉強の哲学』で説明されています。

  勉強のきりのなさ――深追い方向(アイロニー)と目移り方向(ユーモア)の――に打ちのめされず、ある程度で、「一応は勉強したことになる」という状態を成立させる。

 情報過剰の現代においては、有限化が切実な課題です。

この本の著者の方はアスペルガーぽいです。アスペルガーの人がやりがちな会話の仕方(興味のあることだけを一方的に話し続ける等)についても分析されているので、いつかその部分について記事を書きたいと思っています。

 当初は、そうしたフランスの文脈がもっぱらの背景でしたが、執筆が進むにつれて、日常的なコミュニケーション経験の概念分析が必要になり、後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論や、ドナルド・デイヴィドソンの言語論なども参照することになりました。

話を元に戻しますが、何に突き抜けるかを決めたら、やるべきこととやらないことを決めて、あとは短期間に集中して取り組むのがよさそうです。

www.youtube.com

言うは易しですが、行うは難しですかね~

とりあえず、少年老い易く、学成り難し、寸暇を惜しんで勉強せよ、ということで勉強だけは頑張っていこうと思います。。。

明確な目標が書けていませんが、以上です。

 

 

そういえば、「筋トレが最高のソリューションである」みたいな考え方もありますよね。これからTシャツ一枚で過ごす日も増えていくので、筋トレもしなきゃな~と考えています。

 『勉強の哲学』にも、ある発想の一例としてですが、以下の文があります。

自分自身の筋肉を鍛える、しかも、個別の筋肉に意識を向けて鍛えるのは、自分をデッサンし、表現することであると言えそうだ――だから筋トレもまた、アートなのである。

こう考えたら、多少頑張れそうな気がします。筋トレをすることで自分が表現者になり、高尚な気分に浸ることができるという。。。

思考が発散していますね。。。何をやるか決めないと。。。

5/30の不安:自分が対人恐怖となったと考えられる3つの原因

自分が対人恐怖となったと考えられる3つの原因

 

 今日は昨日のことが頭に残っていて気分が晴れませんでした。

そのせいもあってか、身体が妙に重くずっと横になっていて気付いたら(というか起きたら)18時でした。メンタル弱すぎィ!

そこから部屋を少し片付けて、ご飯を食べました。

ずっと鬱々としていましたが、いつもよりマシだったのは、「これも一時的な気分の落ち込みさ」と思えたことでした。そこから少し気分が楽になりました。

 昨日はずいぶんと悩みましたが、先週は、タイトルにある「対人恐怖」についてあれこれ考えていたのでちょっとだけまとめておこうかと思います。

なんか毎日自信をもって過ごせたらいいのになって思うのですが、どうしても誰かと一緒にいると、特に誰かと仕事をしているとどんどん自信が無くなっていきます。

 

なんでこんなに人が怖いんだろうなーって今でも疑問に思います。

学生の頃、バイトの店長に「△△がお前のこと『対人恐怖症なんじゃないか』って言ってたぞ」と嫌味っぽく言われたことを今でも覚えています。

私の学生時代についてはこちら↓↓fecunditatis.hatenablog.com

 

当時からそんな感じだったんですよね。学生の頃に「コミュ症あるいはコミュ障というからには、これは何かの病気か障害であって、きっと原因があるに違いない」と思い、色々と調べました。

自己愛性パーソナリティ障害なのか、アスペルガー症候群なのか、注意欠陥多動性障害なのか、対人恐怖症なのか、社交性不安障害なのか、HSPなのか、アダルトチルドレンなのか、愛着障害なのか、、、etc

学生時代は気分的にも落ち込んでいて無気力状態でしたので、上記以外にもスチューデントアパシーなのか、躁うつ病なのか、解離性同一性障害なのか、、、等々も簡単にではありますが調べました。

そして、有力なのはアスペルガー症候群だとの結論に至りました。

ここで一つ謝らなければならないことは、ブログのタイトルにある「アスペのグレーゾーン」についてはあくまで個人的な見解であって正確な診断があったわけではないということです。そのため、サブタイトルでは「(仮)」としています。

これについて、不快に思われる方がいらっしゃるとすれば、申し訳ないことだと思います。すみません。

ただ、私が何かしらの原因でコミュニケーションを中心としたその他様々なことに悩んでいることは事実です。それについて少しでも理解して頂ければと思います。

また、私が例え「アスペルガー」で無かったとしても、「アスペルガー」をキーワードに情報を収集すれば、個人的に有力な情報に辿り着くことができますし、それらの情報を駆使することで、コロナの患者にAIDSの薬が投薬されるように、直接的でなくても間接的に自分の症状を改善させることができると思っています。

私は過去に3回ほど心療内科に通っていますが、アスペルガー等の診断テストのようなものは受けていません。自ら受診を断っています。(恐らくそのようなテストは、日常の言動等について回答し、その程度を判定するようなものだと思いますが、どのように回答したら、そのように判定されるのか想定がついたからです。)

また、心療内科の先生にも「話してみてそういった障害があるようには思えない」と言われています。これには実際にそうである部分もあると思いますし、心療内科に行くとうまく悩みを相談できないということがあると思います。

当時鬱々とした気分でしたので、これ以上悪化する前に手を打とうと思って心療内科に足運んだわけですが、あれほど悩んだにも関わらず、いざ心療内科の先生を目の前にすると、なぜか自分でもびっくりするくらい明るく振舞ってしまうのでした。(いざ生身の人間を目の当たりにすると自分の闇を晒すのが恥ずかしくなってしまうのかもしれません。それに自意識が働いて、自分の「できなくて悩んでいること」が話せません。)

それで「そのようには見えない」と言われると、「他人にそう見えるなら、自分が悩んでいようが悩んでいなかろうがどっちでもいいことだ」と一人合点して、その場を後にしてしまいます。

その後やはり、自分じゃどうにもできないと思って再度足を運ぶわけですが、同じことの繰り返しです。

まあ、心療内科の先生は自分の苦労をわかってくれないと思ったこともありますが、実際に、私の悩みや不安の絶対量が少ないのかもしれません。それでも辛くて辛くてどうしようもないというときもあるわけで、この状況を打破したいと考えているのもそれまた事実です。

あれこれ自分で考えても仕方がないので、専門の方に聞くのが一番かと思いますが、私のように軽度の症状?の者にはあまり取り合ってくれないイメージもあります。

それに対人恐怖症的なものについては、下記書籍『青年期の対人恐怖』には30歳になる頃に症状が軽減すると書かれていますので、今はもう少しの辛抱だと思って我慢しています。

  笠原嘉(1977)の青年期延長説を根拠に、対人恐怖の人たちは「30歳前後になると、長かった苦悩から解放され、少なくとも今までよりは楽に社会的参加ができるようになる」ということから、人格成熟の一つの節目がこの頃にあると推定し、青年期は30歳までという説に同意している。今では青年期の終期が24、5歳だという説に同意する人は少なく、30歳を過ぎないと大人とは思えない。

 

30歳以降にも対人恐怖を訴える人がいるとも書かれていますが、それもあることだとは思います。結局人間の成長と言うのは、人と接すること、対話することで促されるのであって、ただみんなと同じ時間を過ごしたからと言って自動的に大人になるものでもないと思うからです。

下記記事にも書かれていますが、精神的に自立するためには、自立した方とのコミュニケーションが大事ということです。

self.hatenablog.com

 

以下では、自分の対人恐怖的となった原因をいくつか提示したいと思います。色々考えられるわけですが、時間もないので簡単に説明できるものに留めます(あくまで素人・個人の推測です)。

まず、対人恐怖症とはどういうものなのかというところを説明しておきますが、再度『青年期の対人恐怖』の内容を引用します。色々と説はあるようですが、個人的に一番印象に残った説明はこれです(ほぼ孫引き状態になります)。

 森田は「対人恐怖は、恥ずかしがる事を以て、自らふがいないことと考え、恥ずかしがらないようにと苦心する負けおしみの意地張り根性である(森田正馬・高良武久,1593,p.17.)」といっている。さらに「恥ずかしいということは、何を意味するか。それは、人から嫌われないように、好かれたい。劣等のものと思われず、偉いものと見られたい、という感情である。言いかえれば、人から良く思われたい欲望で、即ち同時に、悪く思われはせぬか、という恐怖である森田正馬・高良武久,1593,pp.18-19.)」という。対人場面で、悪くは思われはしないかという恐怖と、負けおしみの意地張り根性が葛藤して、その場にいたたまれなくなるのが対人恐怖であるといえる。

また、別の方(近藤章久(1970))が上記の説を引用し説明するには、

対人恐怖は二つの要請――配慮的要請(人に好かれ、よく思われなければならぬ)と自己主張的要請(人に優越しなければならぬ)――の間の矛盾による葛藤、それにもとづく不安を性格とするもの

となるようです。

自己主張的要請(人に優越しなければならぬ)は自分に当てはまるのでよくわかります。自分は大人しそうな顔をしながら腹の底ではそんなことを考えているんですよね。そのくせ、何もできないのですが。。。

気の弱い奴ほどそんなことを考えるんです。三島由紀夫金閣寺』の解説本『金閣寺の世界』(竹原崇雄)があるのですが、その一文を引用します。

 磯田光一氏が言われるように「肉体的な脱落者は、その反面、精神的な強者としての自覚をもって生きはじめ」るものであるならば、残酷なるものの中にこそ美が存在することを将来への意志として抱く吃りの少年が、「自分はひそかに選ばれた者だ」と考え、「私自身の知らない使命を持つ」ようになるのは当然の道程であった。

三島由紀夫金閣寺の世界

三島由紀夫金閣寺の世界

 

 

私は小さい頃から運動音痴であることをコンプレックスにしていたので、運動ができない分、人より勉強ができなければならないとずっと考えて生きてきました。結局のところ自分より賢い人なんて五万といるわけで、自分は何者でもなかったのですが、今でも人に優越したいという気持ちは密かに持っています(特に勉強で)。。。

運動音痴についてはこちら↓↓

fecunditatis.hatenablog.com

 また、私が運動音痴なのはアスペルガーだからと睨んでいます。

なぜアスペルガーだと不器用になってしまうのか、脳機能の観点から説明されている文章を『アスペルガー症候群』(岡田尊司)から以下に引用します。

 その中でも、とりわけ目立ったのは、小脳のプルキンエ細胞と呼ばれる大型の細胞の数が少なく、未発達なことである。プルキンエ細胞は、協調運動において中心的な役割を担っている。その後、画像研究により、自閉症の人では、小脳虫部と呼ばれ領域が平均して小さいことがわかった。

(中略)

 近年、不器用さや作業速度の遅さが、視覚的な処理の問題によって起きているとする、別の仮説も提唱されている。視覚の伝達経路には、反応は遅いが明暗しか伝えないマグノ系と、反応は速いが色彩を伝えるパルボ系がある。素早く点滅させた図形を見せたとき、図形の変化に対する反応が、自閉症では遅いことがわかり、マグノ系の働きが悪いと推測されている。

アスペルガー症候群

アスペルガー症候群

 

 

これだけ読むと本当に劣っているんだな~と思ってしまいますが、安心してください。

脳の神経系の量は一定みたいなので、どこかの脳神経の密度が小さいということは、別のところが濃くなっている可能性が高いようです。きっと不器用な分、得意こともあるでしょう。私も学生時代に大学の先生から「お前は得意なことはめちゃくちゃできるけど、できないことはめちゃくちゃできないな。」と言われたことがあります。

芸術関係に才能がある人は、脳の神経系の芸術に対応したところ、特に側頭葉の上端付近に位置する角回と呼ばれる部位がとても発達しているといわれています。音楽好きな人は、聴覚に関係した側頭平面などが発達しています。神経の密度が高いのです。医療機器を使った脳神経の密度の測定や研究によって、そのことが示されています。

 ただし、神経系の総量は一定だといわれています。つまりこれは、芸術的な神経系が発達していれば、それ以外のどこかは未発達になっていることを意味します。

書き方が逆ですが、そういうことです。下記書籍からの引用しました。

 出典が書かれていませんので、真偽のほどは定かではありませんが、参考にしてもいいかと思います。

長くなりましたが、以上をまとめると、私が対人恐怖である原因は、生まれつきアスペルガーだったがために運動音痴であり、それが原因で自己主張的要請(他人に優越しなければならない)が強くなり、心理的な葛藤が生じたから、と言えそうです(あくまで推測です)。これが、「運動音痴だったから説」です。

あと、もう2パターンの可能性を考えています。

その一つが「エディプスコンプレックス形成不全説」です。

これは、父親との関係が本来あるべき姿ではなかったがために、自我がコントロールできなくなるというもので、前述の『青年期の対人恐怖』で提唱されています。

少々長いですが、これも引用します。

青年期に家族から出立して社会へ参入していくときまでに、個人はその社会の秩序を受容していく心的態度が形成されていることが期待されている。このような心的態度は青年期に急造されるのではなく、幼児期から準備されていて、その基盤が準備されている。

(中略)

  フロイトはこのような基盤が形成されるのが、3歳から5歳にかけての男根期であるとし、その時期に男の子は母親との性的結合を願い、一体化していつまでも一緒にいたいと望むエディパルな願望から、父親を殺害したいという願望を抱くようになる。このエディパルな願望は、露見すると父親から男根(ペニス)を切り取られるという去勢不安によって断念させられる。エディパルな願望が去勢不安によって無意識へ抑圧されるときに形成されるのが「エディプス・コンプレックス」といわれるものである。父親の絶対的な力に屈して、そのような力を獲得できるように、父親を見習って、すなわち同一視して、父親になろうと努力する。父親のもつ既存社会の規範、行動原理を内面化したものが「超自我」である。

(中略)

ところが、現在の社会は父権制家族制度は解体へと向かい、父親の権威も失墜し、社会の価値観も多様化しているため、幼児期以来形成されてきた「超自我」による自我のコントロールが弱体化しているという背景がある。

 エディプスコンプレックスが対人恐怖の原因と考える場合には、エディプスコンプレックスが形成されなかったため、自我をコントロールする超自我がなく、自己承認欲求が強くなってしまい、そのために他人によく思われたいという気持ちが強く出てしまうと考えられます。

また、解釈が異なるかもしれませんが、父性的な存在が心理的に不在となると、男性的なロールモデルがないため、自分が大人になった時の姿が想像できないということも考えられそうです。特に私は父性的な存在(威厳のある人)が苦手です。

ちなみに、エディプスコンプレックスは西洋的な文化を反映した考え方であって、日本の家庭に当てはまるかは議論の余地があるとのことです。「阿闍世コンプレックス」なるものもあるようです。

 

そして、私が対人恐怖となった原因としてもう一つ考えられるのが、「愛着形成不全・オキシトシン受容体少量説」です。

社会性ホルモンとも呼ばれる「オキシトシン」の分泌量が幼児期に少なかったために、愛着形成が不全となり自閉的な症状(特に対人的関係に不安を覚える等)が現れると考えるものです。

オキシトシンはスキンシップで分泌されるので、幼児期には母親がたくさん抱っこをしてあげることが大切です(恐らく)。幼児期に抱っこをせず、ただご飯だけを与えるという人体実験を行ったら皆亡くなってしまったという話も聞いたことがあります。

またオキシトシンの受容体の分泌量は幼児期(1歳程度)に決まるといわれており、この間にオキシトシンの分泌量が少ないとそれに応じた受容体しか分泌されなくなります。幼児期にどう過ごすかが成人後にも影響するということです。

私は先天的に心臓の病気があり0~1歳のときに手術をしているので、この間母親の手元を離れています。また生まれたときは未熟児であったため、ほとんど抱っこされていなかったのではと考えています。(私の心臓病は完治しています。また心臓病とアスペルガーは高齢出産が原因ではないかとも疑っています。高齢出産反対!)

そのためにオキシトシン受容体の分泌量が少なくなってしまい、今の状態になっているということです。

ちなみに、リズム運動や日光浴でもオキシトシンは分泌されるようです。

アスペルガー症候群うつ病改善のための、鼻にスプレーするオキシトシンみたいなものもあるようですね。受容体が少ないのなら、沢山供給するしかありません。

長くなりましたが、以上です。

自分が対人恐怖的になったと考えられる原因を説明しました。

①「運動音痴だったから説」

②「エディプスコンプレックス形成不全説」

③「愛着形成不全・オキシトシン受容体少量説」

 

おやすみなさい。

5/29の不安:メールと懇親会とでストレスを感じた話(一週間お疲れ様でした。)

今日はストレスフルな一日だった。

予定していたほどには仕事は進まなかったし、嫌なことが二つあった。

あれこれ考えてしまって今は気分が晴れない。

ひとつには、苦手な他部署の上司にメールを送ったことだった。

外注から来た見積もりの中身を承認してもらうためにメールを送る必要があった。

その人はどちらかというと結論を急ぐタイプだから、メールの件名だけで内容が分かるようにし、本文も言いたいことを一番初めの文に書いた。

長々と書いても嫌がれるだけだろうから、なるべく簡潔な文章を目指した。

それでも、送るときには、「これだけ配慮しても、どうせ何か言われるだろうな」という考えがあった。いつまでもメールの内容を考えても仕方がないから、そのまま送信ボタンを押した。

そしたら案の上、数分後に少々長いメールが来た。内容としては、外注とのやりとりの状況が分からない、ちゃんと予算を把握しておけとのメールだった。

予算は把握していたが、メールにはわざわざ書かなかった。

「ちゃんと把握してますよ」と言いたかったが、それを言ったところで何も変わらないから、「以後気を付けます」とだけ返信した。

他の上司だったら、もしくは送信者が自分でなければ、「了解」程度のやりとりで済んだであろう。

もう、こういう場合、何をやってもダメなんだろうな。気に食わない奴は何をやったって気に食わない。ただそれだけ。

そうは言っても本当の自分は気にしているのだから、そのメールをもらった後は動揺して集中できなかった。

その上司が自分のことを気に食わないと思っているかは定かではないけれども、不安視していることは確かだろう。

なんだかそのことが頭にこびりついてしまった。

嫌だったこと二つ目は、懇親会だ。

コロナが騒がれている時期ではあるけれでも、異動になる方とそのままお別れというわけにもいかず、社内でソーシャルディスタンスを保ったままささやかな懇親会を行った。

よく喋る後輩のお陰でなんとかその会は盛り上がりを見せたが、自分はただ端の方で座っているだけだった。

改めてこういう場が苦手だということを自覚した。

どっと疲れた。

最近馴染めたかに思えた今の部署に対して少し疎外感を味わってしまったように思う。

そう考えると、考えは急に悪い方向に転がって自分は社会人としてやっていけないのではないかと考えてしまった。

今の時代、機械的にこなすだけで自分の満足する給料の貰える仕事なんて滅多にないし、勉強したところで仕事も振って貰えないだろうとも思った。

自分も若手なのだから、その場を盛り上げようという気概はあったが、気合いだけではどうにかなるものでもなかった。

人と目を合わせるのが怖い。あの盛り上がりの中でその雰囲気にふさわしいリアクションを取らねばというプレッシャーで動揺してしまう。

その空気に追いつこうと考えている時点で、その空気には乗れていないわけで、既に阻害されている。

これに関しては長年色々考えて解決の糸口を見出せていないのだし、考えは堂々巡りになるばかりだから気分転換になる事だけ考えよう。

コミュニケーションに対する考えについては以前記事にちょっとだけ書いた。↓↓

fecunditatis.hatenablog.com

 こうした気分のときこそ、ブログ・日記を書くべきだ。今やっていることは間違いない。

この後はAmazonプライムで映画を見る予定。

以上。

5/25の不安:マーク・ピーターセン『日本人の英語』岩波新書(その2)

マーク・ピーターセン『日本人の英語』岩波新書

今日も一日お疲れ様でした。

土曜日の続きです。『日本人の英語』後半半分を昨日読みましたので、忘れないように印象に残った部分をメモしておきます。fecunditatis.hatenablog.com

日本人の英語 (岩波新書)

日本人の英語 (岩波新書)

 

 1.時制

 

英語の考え方の特徴は、「時」を気にするところにあり、一方で日本語の特徴は「相」を気にするところにあるとのことでした。以下、引用です。

 どうして英語と日本語との間にこういう違いがでてくるのかというと、いつも「時」のことばかり気にする英語の特徴に対して、日本語は、「時」自体に関して特に気にせず、いつも「相」(aspect)のことばかり気にするからである。それは簡単にいいかえれば、英語にとっては行動と状態の時(the timing of the action or condition)がもっとも大事であるが、日本語にとっては行動と状態の完了の程度(the degree of comletion of action or condition)がもっとも大事なのである。

具体例として例文が挙げられています。

Before I went to Beijing, I studied Chinese.

北京へ行く前に、中国語を勉強しておいた。)

Before I go to Beijing, I am going to study Chinese.

北京へ行く前に、中国語を勉強する予定である。)

英語では、カンマの前半で時制が異なっていますが、日本語ではどちらも「北京へ行く前に、」となっていて、時制を気にしていません。これは日本語は行動の時を問わず、状態にしか着目していないからだそうです(上記の例文であれば、行く前なのか、行った後なのか)。

ということで、その点に気を使って英語を話すべきだとのことでした。

また、過去のある時点から2年間を勉強してきたことを伝える場合、have studied(現在完了)と have been studying(現在完了進行形) とはどのように使い分けるべきかということに関して、行動の鮮明な生き生きした描写がほしいときは、後者のhave been studyingを使うべきとのことでした。

I have been studying intensively for the past two years.

(この2年間、集中的に勉強してきている。)

 

さらに、その状態が継続的な場合は現在完了進行形(未来完了進行形、過去完了進行形も同じ)で書くのがよく、現在完了とした場合は、断続的な場合も含まれるとのことでした。

継続なのか、断続なのかはっきりさせたい場合は、副詞等を用いるのがベターだということです。以下の文章は現在完了を用いていますが、どちらも継続的に2年間であることを示しています。

I have studied for two years altogether.

I have studied for a total of two years.

 

2.制限的用法と非制限的用法・先行詞

 

まだ理解できてません。。。。後日追記予定。

非制限的用法とかここらへんで高校時代に躓いた気がする。

 

3.「特に」「とりわけ」問題

 

日本語で言う「特に・・・」、「とりわけ・・・」と英語で書きたい場合は、"Especially,"と書いてはダメとのことです。これは文法的にアウトだということで、どうしても「特に・・・」と文章を書き始めたい場合は”In particular,”ならOKだそうです。

 

4.AccordinglyとConsequentlyのニュアンスの違い

 

 「したがって、」という意味でよく"Accordingly,"と"Consequently"がよく使われるのを目にするけれども、わずかにニュアンスが異なるとのことです。

accordinglyは"in agreement with"(・・・と一致して;・・・に応じて)という意味が強く以下のような文章に用いるのがよいとのことです(「ある状態に合わせた」というニュアンスがある)。

This instrument is fragile and should be handled accordingly.

(この計器は壊れやすいのでそのつもりで操作しなければなりません。)

He is a former President of the University and expects even now to be treated accordingly by the entire staff.

(彼は元学長であるので、今も職員全員に、それに応じた扱いを受けるのが当然なことと思っている。)

一方、Consequentlyの方は、語源がConsequenceであり、その意味は「結果」や「帰結」であることから、「ある状態の当然の結果として」というニュアンスがあるとのことです。例文としては以下が挙げられています。

Sudden flooding had washed out the roads leading to the research station, and consequently, we were unable to reach it before dark.

(突然の洪水が調査基地へ行く道を洗い流してしまった。したがってわれわれはそこに暗くなるまでに着くことができなかった。)

また、「したがって」から派生して「ゆえに」の意味で用いられる"Therefore,"は一切使わない方がよいとのことでした。

推論の正確さや精密さを示し、特に数学や法律などの形式ばった文章に目立つ言葉である。

 とのことですが、あまりにかっちりしているせいか、表現が大げさになるようです。どうしても"therefore"を使いたければ、カンマを外して文章の中に少し隠すつもりで書くとよいようです。

あまりよろしくない例↓↓

Our first attempt met with failure. Therefore, we revised our approach to the problem.

(われわれの最初の試みは失敗に帰した。ゆえにその問題への接近法を訂正した。)

以下修正した例です。↓↓

Our first attempt met with failure.  We therefore revised our approach to the problem.

(われわれの最初の試みは失敗に帰した。ゆえにその問題への接近法を訂正した。)

 

5.その他接続詞に関する(英語論文を書く際の)注意点

 

  1. "so"は口語表現(日常表現で柔らかい印象を与える)なので、論文等の文章には使わないこと。
  2. "since"と"because"の堅さは論文に丁度よく、そういう意味で自由に使ってよい。ただし、日本語の「〜だから」に相当し、ソフィスティケーションの足りない印象を与える場合もあるので注意すること
  3. "as...."という表現はビジネスレターや政府の宣言等の文章には生き残っているが、科学論文には使わない方がよい。文体上の理由もあるし、since,because以外にwhile(・・・をしながら、・・・と同時に)という意味もあるので、文章が曖昧になる可能性が高い。 
  4. 理由を表すための"for"は文学的表現なので用いない。

 

6.threby, thus, hense

 

threby, thus, henseのニュアンスの違いは以下の通りのようです。

  • threby:学術論文にとてもふさわしい表現。"by this specific action"(この特定の行為によって)と言う感じが強い。
  • thus:"in this general way"(このようにして、こうして)の感じが強い。
  • hense:threbyと同様に学術論文にふさわしい表現。therebyが「ある行動によって」という感じであるのに対し、henseは「ある状態によって」という感じ。

以下例文です(引用)。

The government has promised to eliminate the import quotas on beef, and hense the Japanese consumer may anticipate, for the first time in his life, the opportunity to eat steak at prices within the realm of common sense.

(政府は牛肉についての輸入割当の撤廃を約束した。したがって、日本の消費者は生まれて初めて、ステーキを常識の範囲内の値段で食べられるようになると期待してよい。)

The university has decided to add an aural comprehension section to the English entrance examination, thereby attempting to attract students with more practical language ability. Thus, applicants who have actual experience living in English speaking countries may be expected to have a special advantage.

(その大学は英語の入試にヒアリングを加えることにし、それによって、より実際に使える英語力をもった学生をひきつけようとした。英語圏で実際に暮らしたことのある受験生はこうして特に有利になると考えられる。)

 

7.氏名について

 

Genji Hikaru(光源氏)、Soseki Natsume夏目漱石)のように、family name とfirst name をわざわざ入れ替えるのは日本人だけ。Natsume Sosekiでよい。

 

最後に。。。

きっと読めば"はっと"させられることが書いてあると思います。もともと英語論文を書くために書かれたものなので、これを読んだら英語が話せるようになるわけではありませんが、基本的な文法事項も含めてざっと学べる一冊ではないかと思います。

レベルはどれくらいなんでしょう??初学者でも読めるかとは思いますが、学生時代に2回も読んでおいて内容を全くと言っていいほど私は覚えておりませんでしたので、そこらへんは自信がありません。。。

冒頭の文章とあとがきで著者の方が自分の日本語を卑下していますが、全くもってそんなことはないと思います。おそらく日本人の謙遜スタイルを真似たのかな?と思います。

上から目線になってしまい恐縮ですが、本書の日本語は正確に書かれていると思います。よくこんなに書けるなと。恐らく校正が入っているのだと思いますが。。。

痒い所に手が届くような表現が多く、細かいニュアンスが正確な日本語で表現されているので、読んでいて勉強になります。

また、漢字、ひらがな、カタカナ、アラビア数字、アルファベットが入り乱れていてぱっと見の字面はすごいことになってます。

改めて言語について考えるきっかけになるかもです(そんな人いないか)。

これを読めば740円+税で豊かな時間が過ごせると思います。おすすめしておきます。